歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

都城市

宮崎県都城市の関之尾滝

都城市は宮崎県の南西部に位置する南九州の拠点で鰐塚山地に囲まれた都城盆地にあります。大淀川が貫流して豊富な地下水に恵まれ、焼酎や茶の名産地で畜産も日本一と言われます。歴史的に鹿児島の影響を強く受けた影響が方言などに残ります。

概要

面積
653.36km2
人口
159,406人(2022年2月1日)
市の木
ケヤキ
市の花
アヤメ
市の花木
サクラ
地図

歴史

都城市は旧石器時代から弥生時代にかけて人が生活した多くの遺跡が残ります。有力者が古墳や住居跡を残しますが、鎌倉幕府が島津荘と呼ばれる荘園を管理する役人を置いて島津発祥の地となりました。やがて争乱の地となりますが、北郷氏が治めて明治時代まで続きました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

都城市には旧石器時代から弥生時代の遺跡が数多く残されています。池増遺跡や雀ヶ野遺跡群からは旧石器時代の多様な石器のほか縄文時代早期の調理用の炉跡の集石遺構が見つかり、王子山遺跡では住居跡や石組炉などの施設のほか、食料と考えられるドングリや国内最古のネギが発見されています。縄文時代の終わりから水田が造営されて稲作が行われて坂元A遺跡は南九州最古の水田跡が発見され、黒土遺跡からは朝鮮半島起源の擦り切り溝の石包丁や米粒が混ざる土器が出土したほか、平田遺跡からは周溝状遺構の内部から炭化米が大量に出土しました。弥生時代中期から後期には花弁形住居が建築された跡が残り、向原遺跡からは南九州では例の少ない鍛冶工房跡が残されています。

都城市の石器時代住居跡尾平野洞窟

石器時代住居跡尾平野洞窟

縄文時代後期から晩期の遺跡で山で狩猟するベースキャンプとして使用されて宮崎県南部に生息していないカモシカなどの動物の骨が発見されています。

古墳時代、飛鳥時代

都城には南九州で特徴的な地下式横穴墓が数多く造営されました。

都城市の都城市古墳

都城市古墳

都城盆地で唯一の高塚古墳で小さな円墳1基しか残りませんが、地下式横穴墓から腐食した武具や太刀などが出土したと伝えられています。

都城市の志和池村古墳

志和池村古墳

7世紀まで大淀川と丸谷川に挟まれた台地に前方後円墳1基、円墳10基、地下式横穴墓60基以上の古墳が造営されました。

都城市の高城町古墳

高城町古墳

都城盆地の北部に位置する前方後円墳3基と円墳19基で構成されます。多様な墓制で構成され、古墳時代中期の5世紀には築造が進んでいたと考えられています。

都城市の都城市沖水古墳

都城市沖水古墳

詳細は不明ですが、墳丘から軽石製の円筒型の容器が発見されて中に銅製の経筒と中国製の鏡、玉石が収められていました。

都城市の山之口村古墳

山之口村古墳

富吉地区の丘陵に分布する円墳9基と地下式横穴墓1基で、詳細は不明でこのうち円墳7基が指定を除外されています。

都城市の高崎町古墳

高崎町古墳

大淀川とその支流である高崎川と炭床川に囲まれたシラス台地上にあります。塚原1号墳は都城盆地最大の前方後円墳であり、九州南部の最も内陸にある前方後円墳です。

奈良時代、平安時代

太宰府の大監である平季基が万寿3年(1026年)に宮崎県都城市を開墾して摂関家藤原頼通に寄進して島津荘を開きました。平季基は梅北城跡に居館と建てた伝承があり、のちに島津荘の荘官となる伴氏の子孫が梅北氏を名乗り城主となりました。都城は河川を利用した交通・交易で栄えた有力者がおり、地元有力層の邸宅跡が大島畠田遺跡に残されています。

宮崎県都城市の東霧島神社

東霧島神社

霧島六所権現のひとつで第5代孝昭天皇の時代に創建したと言われます。応和3年(963年)に天台宗の僧侶・性空上人が神殿を再興しました。

宮崎県都城市の大島畠田遺跡

大島畠田遺跡

奥行20メートル、幅15メートルの大型掘立柱建物をはじめ、多数の掘立柱建物、池状遺構、門や柵など多数多量の土師器、貴重な輸入陶磁器などが数多く出土しました。

鎌倉時代、南北朝時代

文治元年(1185年)に源頼朝の命を受けて惟宗忠久が地頭として島津荘を管理するようになると、島津姓を名乗り祝吉御所跡に館を置いたとされます。やがて在地領主館跡が加治屋B遺跡に置かれ、溝状遺構で囲まれた掘立柱建物跡96棟や竪穴状遺構4基、墓跡などが置かれた大規模な館跡が造られました。

南北朝の争乱

南九州の要害として活用された梅北城は後醍醐天皇の南朝方の拠点となり、建武3年(1336年)に北朝方の日下部盛連らに攻められ、これ以降も島津氏、新納氏、伊東氏、北郷氏の争奪の的となりました。正平14年/延文4年(1359年)に足利尊氏から島津荘北郷を与えられた肥後国球磨の相良定頼が山田城を築いて、のちに北原氏が入りました。正平6年/観応2年(1351年)に島津忠宗の六男である北郷忠資は、足利尊氏より庄内北郷を与えられ都城島津家の初代となり山久院を菩提寺とし、天授元年/永和元年(1375年)には北郷義久が都城を築きました。

都城市の祝吉御所跡

祝吉御所跡

薩摩島津氏の初代島津忠久の館跡で、地頭となる惟宗忠久は島津荘の中心である祝吉の地に移り住み、荘園の名にちなんで島津姓を称するようになりました。

室町時代、安土桃山時代

天文元年(1532年)に北郷忠相、島津忠朝、北原久兼の連合軍が伊東領の三俣院に攻め込み、臨時的に六ヶ城を築きました。連合軍は伊東氏と不動寺馬場で激戦となり、伊東氏は大敗して石山越で三俣院高城城主の伊東祐量が討死しました。勢いを得た北郷忠相は都城の各城を攻略して都城盆地をほぼ統一して最盛期を迎えました。

伊集院氏と庄内の乱

文禄3年(1594年)に島津氏重臣の伊集院忠棟は、豊臣秀吉から認められて都城を与えられました。都城を治めていた北郷氏は祁答院に移り、島津家中は伊集院忠棟を良く思わなくなりました。島津家当主島津忠恒は伏見島津邸に伊集院忠棟呼び出して斬殺し、伊集院忠棟の子である伊集院忠真は島津家に反旗を翻して庄内の乱へと発展しました。島津氏は伊集院氏が守る山田城を落として森田御陣跡に本陣を置くと、慶長5年(1600年)に志和池城が降伏して野々美谷城などの各城も順次降伏しました。伊集院忠真は頴娃1万石に移され都城には北郷氏が返り咲きました。

江戸時代

宮崎県都城市の都城領主館跡

都城領主館跡

元和元年(1615年)の一国一城令により都城が廃城になると都城領主北郷忠能は都城領主館を建てて新しい町の建設を始めました。

宮崎県都城市の今町一里塚

今町一里塚

出水筋、大口筋、高岡筋の街道には鹿児島下町札の辻を起点として一里塚が造営されました。都城と曽於を結ぶ今町街道の一里塚としては九州で唯一の国指定史跡となりました。

宮崎県都城市の何欽吉墓

何欽吉墓

鹿児島県内之浦へ渡来した中国広東州の出身の医師で、医術や薬草の本を著して多くの門人を養成したほか朝鮮人参と同様の薬効を持つ和人参を三股の山中で発見しました。

宮崎県都城市の観音瀬水路

観音瀬水路

大淀川の観音瀬は岩盤が広がり船の行き来ができない状態でした。寛政3年(1791年)から3年かけて大淀川を掘削して船を通すための工事が行われました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治9年(1876年)の宮崎県の鹿児島県への併合に伴い都城は鹿児島県となりましたが、明治16年(1883年)に宮崎県が再置されたことで都城は宮崎県に再編されました。江戸時代から明治時代にかけて坂元源兵衛、前田正名が整備した関之尾用水路は新たな水田に水を供給しました。明治10年(1877年)の西南戦争では地元の士族などが都城隊として参陣し、都城県参事の桂久武が従軍しています。太平洋戦争では昭和20年(1945年)に都城西飛行場から沖縄周辺に向けて特攻機が出撃しました。空襲により西飛行場が壊滅すると東飛行場から特攻機が出撃するようになり、北飛行場も建造されましたが特攻機の出撃はありませんでした。