延岡市

延岡市は宮崎県の北部に位置し、九州山地を背に清流五ヶ瀬川が貫流して日向灘に流れ込みます。東にはリアス式海岸の日豊海岸国定公園があり、西には大崩山や行縢山などの雄大な山々がそびえ、九州山地を水源とする水郷のまちとも知られています。
概要
- 面積
- 868.02km2
- 人口
- 116,419人(2022年2月1日)
- 市の木
- クロガネモチ
- 市の花
- カンナ
- 市の花木
- フジ
- 地図
歴史
京と太宰府を結ぶ交通の要衝として、臼杵郡の中心として古くから発展しました。平安時代から戦国時代まで宇佐八幡宮の社人とされる土持氏が統治しました。江戸時代に有馬氏や牧野氏などを経て内藤氏が統治しました。明治時代の西南戦争では西郷隆盛が最後に陣屋を置いて薩軍が解散しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
およそ3万年前の畑山遺跡が最も古く、ナイフ形石器文化層と細石器文化層の指標遺跡である赤木遺跡をはじめ、岩土原遺跡や吉野遺跡などが残されています。縄文時代には県内最古の貝塚である大貫貝塚のほか、沖田貝塚などが造営されました。中尾原遺跡などには弥生時代から古墳時代にかけての住居跡が確認されています。

行縢山
落差77メートルの行縢滝は、日本武尊が熊襲を征伐したときに布引の矢筈の滝を射てみれば川上たける落ちて流れると詠みました。

那智の滝
奈良時代の僧行基が開山したと伝えられる那智山如意輪寺本堂の右手に流れ落ちる高さ30メートル、幅6メートルの滝です。
古墳時代、飛鳥時代
延岡古墳群、北方村古墳、宮内庁が御陵参考地としている可愛山陵など多数の古墳が造営されました。菅原神社古墳は未調査ながら県北最大の前方後円墳と考えられ、上ノ坊古墳からは全国的に類のない三角板革綴短甲が出土しています。

南方古墳群
五ヶ瀬川流域に分布する41基の古墳群で、古墳時代前期から後期に継続的に築かれました。五ヶ瀬川流域の有力な集団の墓地と見られています。

北方村古墳
板状の石材を組み合わせた箱式石棺を埋葬施設とする3基の円墳が史跡に指定されています。3号石棺は長さ2メートルあり直刀の一部や鉄鏃、鉄斧が出土しました。

延岡市古墳
主に市街地北部の稲葉崎地区と大瀬川沿いの小野地区に分布している34基の円墳や横穴墓です。

南浦村古墳
熊野江湾に面する低地に立地する箱式石棺墓群で、現在は熟年女性の人骨と土器片が出土した6号石棺のみ現存しています。
奈良時代、平安時代
律令制の成立に伴い日向国が設置されると、延岡市域は臼杵郡に属しました。大宰府と都を結ぶ重要な拠点として長井駅や川辺駅が置かれ、英多郷には郡衙が設置されたとされます。古川窯跡では須恵器が生産され、上多々良遺跡から墨書土器が出土しています。
土持氏による荘園管理
治暦2年(1066年)に五ヶ瀬川北部地域にあたる臼杵郡内北郷の荒野が国司菅原義資により開拓され、宇佐八幡宮に進上され臼杵荘が成立しました。宇佐八幡宮の社人とされる土持氏が荘園を管理し、治承元年(1177年)に土持栄綱は井上城を築城しています。
鎌倉時代、南北朝時代
宇佐宮領縣荘の地頭に工藤祐経が任命され、伊東氏の祖となりました。岡富荘の弁済使に土持宣綱、多奴木田の弁済使として宇佐久通が配置され、新名と浮目の地頭には中原親能、大貫と伊富形の地頭には島津忠久が置かれました。これらの有力者による勢力争いが繰り広げられ、土持氏が勢力を伸ばしていきました。
室町時代、安土桃山時代
正長2年(1429年)に土持全宣が西階城を築城し、文安3年(1446年)に土持宣綱が松尾城を築いて居城としました。天正5年(1577年)に日向国最大の領主伊東氏が島津氏に敗れて豊後国に落ち延びると、翌年に大友宗麟が日向国へ侵攻を開始しました。大友氏は土持氏の居城・松尾城を攻略しますが、耳川の戦いで島津氏に大敗したことで旧領を回復しました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉による九州征伐で島津氏が降伏すると、土持氏は所領を没収されて豊前国香春岳の高橋元種が入封しました。
江戸時代
慶長18年(1613年)に罪人を隠した罪で高橋元種が改易されると、肥前国日野江の有馬直純が入封しました。元禄4年(1691年)に有馬永純が越後国糸魚川に移封されると、三浦明敬が下野国壬生より入封し、正徳2年(1712年)に牧野成央が入封するなど藩主が頻繁に交代しました。享保9年(1724年)に牧野貞通の家老・藤江監物は、郡奉行・江尻喜多右衛門を抜擢して岩熊井堰を築造を始め、享保19年(1734年)に五ヶ瀬川の水が出喜多村に引かれました。延享4年(1747年)に内藤政樹が入封してからは、内藤家の統治下で明治維新を迎えました。

縣城(延岡城)
慶長8年(1603年)に高橋元種が五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた丘陵に築いた城で、建築当初は縣城と呼ばれていました。延岡藩の政庁であり、麓には城下町が整備されていきました。

千人殺し
延岡城を代表する高さ19メートルある石垣は、礎石を外すと崩れ落ちて千人の敵を倒すことができると言われ、千人殺しと名付けられています。

岩熊井堰
家老・藤江監物が工事を始めましたが、工事が難航して藩内で不満が高まり、筆頭家老牧野斉宮らによる讒言により捕らえられて牢屋で獄死する事件が起きました。

内藤家墓所
125年間も延岡藩主を務めた内藤家の墓所です。最後の藩主内藤政挙は、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方に与したため新政府より謹慎に処されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により延岡県から美々津県に再編成され、明治6年(1871年)に宮崎県となり翌年に鹿児島県に属することになりました。明治16年(1884年)に再び宮崎県となり、昭和8年(1933年)に延岡市が誕生しました。昭和20年(1945年)に空襲で中心地域は焦土と化し、終戦を迎えると米軍が進駐して雷管工場寄宿舎を宿舎としました。
西南戦争
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、延岡藩の旧藩士は延岡隊を結成して薩軍に加わりました。薩軍は高千穂各地で激戦を繰り広げた末に延岡に後退しました。西郷隆盛は最終決戦と位置付けた和田越の戦いで陣頭指揮しますが、圧倒的な兵力と火力の前に敗れて薩軍を解散しました。延岡隊の多くは新政府軍に降伏し、西郷隆盛ら一部が可愛岳を突破して鹿児島に戻りました。

比叡山
標高900メートルほどの山で、花崗岩の岩肌はロッククライミングの名所として知られます。西南戦争では薩軍と新政府軍の激戦となり、敗れた薩軍は延岡に後退しました。

南洲翁寓居跡
旧児玉熊四郎邸で薩軍最後の本陣が置かれました。西郷隆盛は和田越の戦いを決戦と位置付けて陣頭指揮しますが、これに敗れたことで薩軍の解散を布告して軍服を焼き捨てました。
