小林市
小林市は宮崎県の南西部に位置し南西部に霧島連山が連なります。小林市域はカルデラが陥没した小林盆地が形成して岩瀬川が東西に流れ、清流とその流域に優良農地が広がり、豊かな自然環境は霧島ジオパークや綾ユネスコエコパークに認定されています。
概要
- 面積
- 562.95km2
- 人口
- 42,939人(2022年2月1日)
- 市の木
- モミ
- 市の花
- コスモス
- 市の虫
- ホタル
- 市の鳥
- アオバト
- 地図
歴史
小林市域は、島津荘の寄郡として真幸院が成立して日下部氏が統治したことに始まります。日下部氏が衰退すると肝付氏一族の北原氏が統治するようになりますが、日向国伊東氏の介入により薩摩国島津氏に援助を求めて島津氏と伊東氏の争奪の地となりました。島津氏は木崎原の戦いで伊東氏を破り、島津氏が統治して明治時代を迎えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
大淀川の支流である本庄川の上流にあたる須木地区には、照葉樹の森に抱かれた豊かな自然が数多く残されています。新村遺跡でナイフ形石器が出土したことに始まり、縄文時代早期から後期にかけて造営された本田遺跡、山中遺跡や大萩遺跡などでも弥生時代の遺構が残ります。
須木滝(まま子滝)
継母が前妻の娘を憎み滝に突き落としますが、娘が自身と継母を帯で結んでいたため一緒に滝壺に転落した伝説からまま子滝と呼ばれています。
本田遺跡
石鏃、石斧、石槍などの多数の石器とともに竪穴住居の柱穴や炉跡、土坑墓などの遺構も発見されました。
古墳時代、飛鳥時代
小林市市域には南九州特有の地下式横穴墓が造営されています。5世紀末から6世紀前半頃に築造された小林町古墳や須木村古墳が残され、人骨に伴い直刀・剣・鉄鏃などの副葬品が出土している。
野尻村古墳
野尻町にある円墳で大萩古墳とも呼ばれます。周辺では地下式横穴墓が相次いで発見されており、大萩地下式横穴墓群と呼ばれます。
須木村古墳
旧須木村役場の東側山林中で発見された地下式横穴墓4基からなります。9号地下式横穴墓は出土した人骨の頭部は刀子が刺さり呪術的な性格がありました。
小林町古墳
小林市街地の北東に位置する台地上に分布する地下式横穴墓で、鉄鏃・骨鏃・刀剣類・鏡・貝輪・朱玉などが出土しています。
東二原地下式横穴墓群
二原台地にある5世紀後半~6世紀前半頃の墳墓群で、円墳1基と地下式横穴墓16基が確認されました。人骨を始め鉄剣や鉄刀、鉄鏃などが出土しています。
奈良時代、平安時代
天平15年(743年)の墾田永年私財法の制定により律令国家の基礎である公地公民制度が崩壊すると、荘園の開発が進められて南九州には日本最大の荘園である島津荘が成立しました。小林市域は島津荘の寄郡である真幸院に属し、大宰府安楽寺領として日下部氏が任じられました。
鎌倉時代、南北朝時代
日下部氏は鎌倉幕府の執権北条氏と交誼を結び真幸院の実権を握りますが、幕府の滅亡とともに衰退しました。南北朝時代になると日下部貞房の衰退により北朝方の畠山忠顕が一時期を支配しますが、康永4年(1345年)に肝付兼重の援助を背景に肝付氏氏族である北原兼幸が真幸院司として任じられました。
生駒高原
眼下に広がる西諸盆地は真幸院と呼ばれ、肝付氏の一族である北原兼幸が支配しました。
東麓石窟仏
鎌倉時代後期に造営された磨崖仏で薬師如来を中心に日光菩薩や月光菩薩の両脇侍など17体の像からなり、洞窟内の高浮き彫りの磨崖仏は全国的に大変珍しいです。
室町時代、安土桃山時代
北原祐兼は天文10年(1541年)に細野三ツ山城を築城して居城としました。永禄元年(1558年)に北原兼守が細野三ツ山城で死去すると、伊東義祐は跡目争いに介入して馬関田右衛門を居城させました。これに反対する勢力は伊東義祐により粛清され、永禄4年(1561年)に米良筑後守を細野三ツ山城に配置しました。北原家の旧臣は島津貴久に助けを求め、永禄5年(1562年)に島津貴久が細野三ツ山城を攻めて北原兼親に真幸院を領地として与えましたが、真幸院を保つことが難しいと考えた島津貴久は永禄7年(1564年)に北原氏を移封して島津義弘に真幸院を与えました。永禄9年(1566年)に伊東氏が小林城の築城を始めたため、島津義久は島津義弘や島津歳久とともに小林城を攻めるも大きな被害を出して失敗しました。
木崎原の戦い
元亀2年(1571年)に当主島津貴久が死去すると、これを好機と捉えた伊東氏は元亀3年(1572年)に伊東祐安を総大将とする3千の兵が真幸院に侵攻しました。島津氏は敵をおびき寄せて伏兵で挟撃奇襲する釣り野伏で伊東氏を壊滅させ、敗走する途中の柚ノ木崎丹後守が粥餅田古戦場跡で島津義弘に一騎打ちに挑みますが討ち取られました。
紙屋城跡
伊東四十八城の一つで堀が残されます。天正5年(1577年)に伊東氏家臣の福永祐友が島津氏に寝返ると、紙屋城主の米良主税助もこれに呼応しました。
伊東塚
木崎原の戦いで討ち取られた大将伊東祐安を始め9名の重臣たちが葬られています。
江戸時代
薩摩藩では戦国時代末期から一向宗の信仰が禁止されたため、永久井野などのかくれ念仏洞で密かに信仰が続けられました。
地頭仮屋跡
元和元年(1615年)の一国一城令により三俣院の城が悉く廃城となると、薩摩藩は名代として地頭を置いて統治する外城制を敷いて真方地区に地頭仮屋が設けられました。
出の山公園
慶長19年(1614年)に灌漑用水として造営されました。熊襲遠征の帰途で景行天皇に恋した泉媛が天皇が都に戻る悲しさの末に池に身を投げた伝承が残ります。
紙屋池の原一里塚
宝永3年(1706年)の頃に造営されたもので、当時は直径6メートル、高さ約2メートルの円形で旅人の目印となりました。
紙屋漆野原一里塚
宝永3年(1706年)の頃に設けられた盛土状の道標で直径6メートル、高さ約2メートルの円形です。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により鹿児島県に編入されたのちに都城県を経て宮崎県となりました。明治9年(1876年)に宮崎県が廃止されて鹿児島県に編入されますが、明治13年(1880年)の分県運動で明治16年(1883年)に再び宮崎県に再配置されました。昭和25年(1950年)に市制が施行し、小林市が誕生しました。