日向市
日向市は、九州山地から広がる山並みと太平洋など雄大な自然がある温暖な地域です。耳川が貫流して日向灘に流れ込み、リアス式海岸と白砂青松の砂浜が織りなす海岸線は日豊海岸国定公園の南端に位置します。
概要
- 面積
- 336.94km2
- 人口
- 58,729人(2022年2月1日)
- 市の木
- モクセイ
- 市の花
- ヒマワリ
- 市の花木
- ツツジ
- 地図
歴史
日向市は耳川を中心に人が住むようになり、古墳時代に有力者の古墳が造営されました。律令制では宇佐神宮領の荘園が置かれてましたが、やがて伊東氏の勢力下に置かれました。島津氏が台頭すると豊後の大友氏と耳川の戦いが起きました。明治時代には官軍の本営が置かれて有栖川宮熾仁親王が訪れました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
日向市では、旧石器時代後期に耳川流域に人が生活するようになりました。古代の人は草食獣狩りや植物を採取をしながら一定の範囲を移動生活をしていたと考えられています。向原中尾の遺跡からは旧石器時代後期のナイフ形石器や石斧などが発見され、縄文時代早期の集石遺構17基、石斧埋納遺構1基、弥生時代終末期の竪穴建物跡7軒が検出されています。
馬の背
長さ5キロにわたり柱状節理の景観が広がるリアス式海岸の景勝地です。
大御神社
日向のお伊勢さまと呼ばれており、天照皇大御神の孫・瓊々杵尊が高千穂に降臨して千畳敷の盤石で天照大神を奉祀して平安を祈念したのが創始と伝えられています。
神武天皇御舟出の地
神武天皇は美々津を出港して大和国(奈良県)に東征を行いました。
日本海軍発祥の地碑
神武天皇が皇軍として初めて船団を組んで瀬戸内海から紀伊半島に進軍したことから、美々津は日本海軍発祥の地とされています。
古墳時代、飛鳥時代
富高町古墳
前方後円墳1基、円墳9基、横穴墓2基からなります。建造年代は不明ですが前方後円墳から鎧冑や四獣鏡片が出土し、円墳から須恵器の壺などが出土しています。
細島町古墳
細島地区に唯一残る古墳で、細島港を望む米ノ山の中腹にあります。周囲には石室に用いられた可能性のある切石が多数散乱しています。
東郷村古墳
山陰古墳(1号墳)、鶴野内古墳(2号墳)と日田尾古墳(3号墳)で構成し、山陰古墳は高さ4メートル、直径7メートルで周溝が残ります。
美々津町古墳
美々津房ノ下古墳群とも呼ばれる小円墳が群在していたと伝えられます。現在は1・2号墳の2基のみでどちらも個人の宅地内にあります。
鈴鏡塚古墳
鏡の周りに数個の鈴をつけた祭祀用具である獣文八鈴鏡や鉄刀などの遺物が出土しました。石室を構築した石材が出土しておらず粘土槨である可能性が高いです。
奈良時代、平安時代
大宝元年(701年)の大宝律令により有力豪族が自分の土地を持つようになりました。朝廷に反抗する日向や大隅の隼人を鎮圧するため、養老4年(720年)に朝廷は宇佐八幡宮で戦勝祈願しました。こうして宇佐八幡宮は朝廷から知られることになり、日向市を含む九州各地に宇佐八幡領が置かれました。
鎌倉時代、南北朝時代
細島の米ノ山には古くから密教系の山岳信仰がありその道場として明王堂がありました。鎌倉時代末期に日蓮宗の僧侶日郷が細島に来て元弘3年/正慶2年(1333年)に明王堂を法華堂に改めました。興国3年/康永元年(1342年)に日睿が法華堂を妙谷寺と改めてから、江戸時代に妙国寺と通称されるようになりました。
僧日要の墓
妙国寺で出家して安房国の日蓮宗本山妙本寺の座主を務めたあと、5年ほど細島の本要寺で近郷住民の教化に努めて永正11年(1514年)に細島で亡くなりました。
妙国寺庭園
米ノ山の自然林や岩盤を利用して池や中島、石組み、3つの築山を配しています。築山は仏教の三界を現して中島が彼岸(悟りの世界)を示すとされる典型的な仏教庭園です。
室町時代、安土桃山時代
室町時代初期から日州刀と呼ばれる刀剣が製作されるようになりました。島津氏に敗れて衰退した伊東氏は、天正5年(1577年)に豊後に落ち延びて大友宗麟を頼りましたが、大友氏は天正6年(1578年)の耳川の戦いで島津氏に大敗しました。大友氏は豊臣秀吉を頼り、天正14年(1586年)から豊臣秀吉による九州征伐が始まりました。秋月種実は島津氏から豊臣秀吉に恭順し、関ケ原の戦いで東軍に寝返り大垣城を開城させたことで、慶長9年(1604年)から高鍋城に入り高鍋藩を成立させました。
橋口氏庭園
修験者が開山した真言宗長福寺の跡地には、天文年間(1532〜55年)に京都醍醐寺の三宝院庭園を模倣した庭園が造営されました。
江戸時代
延岡藩山蔭地区では耳川の洪水で美田が荒れ果てましたが、役人の梶田十郎左衛門は容赦なく年貢を取り立てました。山陰と坪谷村の農民たちは元禄3年(1690年)に一揆を起こして高鍋藩に逃げようとしましたが、高鍋藩に入藩したところで捕らえられ、首謀者は処刑されて延岡藩主有馬清純も陣屋大名に降格のうえ越後国に転封される事件が起きました。
美々津
美々津は海上交通の要所の港町として大いに発展しました。豪商の邸宅・河内屋跡は重要伝統的建造物群保存地区に選定される契機となりました。
河内屋跡
安政2年(1855年)に建築された廻船問屋を営む河野家の住居で、千石船を所有して瀬戸内海や関西地方と取引して有数の豪商になりました。
若山牧水生家
弘化 2 年(1845年)に建てられた生家で、医師である若山牧水の祖父・健海や父・立蔵が若山医院としていました。
幕末勤王家海賀宮門外二士墓
倒幕を企てた黒田藩士の海賀宮門(直求)、肥前の中村主計、但馬の千葉郁太郎の3人は京都伏見の寺田屋で捕えられて薩摩に護送される途中に細島の小嶋磯で斬殺されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で美々津県が新しく作られて、明治6年(1873年)に都城県と統合されるまで中心地となりました。明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると日向市も戦場となりました。細島では政府軍の軍艦が入港して兵士が送り込まれ、西郷軍に対して砲撃を行いました。西郷軍は大谷川を挟んだ柿ノ木田越の陣で奮闘しましたが、次第に追い詰められて延岡へ退却しました。日向市には西南戦争の西郷軍の兵士の墓が残されています。
有栖川征討総督宮殿下御本営遺跡
宝暦10年(1760年)に建設された老舗・摂津屋の建物で、西南戦争で政府軍の本営が置かれて征討総督の有栖川宮熾仁親王が滞在しました。
細島験潮場
明治25年(1892年)に継続的な潮位観測のため陸地測量部が設置しました。切妻造妻入の煉瓦造で屋根は桟瓦葺です。
日向岬(細島灯台)
明治43年(1910年)に宮崎県が設置し、昭和15年(1940年)に逓信省通信局へ移管されて翌年に円形コンクリート造の建物に再改築されました。