串間市

串間市は宮崎県最南端に位置し、温暖な気候と美しい自然に恵まれています。海岸線には起伏に富んだ島や岩礁が点在し、野生馬の都井岬や亜熱帯植物が繁茂する市木海岸など、日南海岸国定公園の風光明媚な景観が魅力の観光田園都市です。
概要
- 面積
- 295.16km2
- 人口
- 16,398人(2022年2月1日)
- 市の木
- ソテツ
- 市の花
- カンナ
- 市の花木
- ヤマザクラ
- 市の鳥
- メジロ
- 地図
歴史
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の留ケ宇土遺跡から剥片尖頭器、後藤野遺跡からナイフ型石器が出土しています。縄文時代には三幸ケ野遺跡では狩猟採取や農耕を営み、下弓田遺跡では漁撈を中心に生活していたと考えられています。弥生時代には大田井丘遺跡や唐人町遺跡などで集落が営まれています。

下弓田遺跡
福島川の河口付近の砂丘上にある縄文時代後期の遺跡で、竪穴住居跡2軒と平地住居跡1軒が検出したほか下弓田式土器などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
文政元年(1818年)に王の山古墳から玉璧が発見されており、海洋を利用した大陸などとの交流が営まれました。

都井村古墳
都井岬の東側に位置する宮の浦湾を望む丘陵斜面上にある箱式石棺を有する古墳3基が指定されていますが、その所在は明瞭ではありません。

福島町古墳
福島川西岸の台地に分布する前方後円墳3基と円墳4基からなります。竪穴式の石槨が確認され、雁木玉などが出土しています。

市木村古墳
市木川沿いに開けたわずかな低地を望む山裾に点在している2基の古墳が指定を受けており、市木本宮古墳(5号墳)のみが古墳の形状を残します。

本城村古墳
志布志湾を望む丘陵にある5世紀後半から6世紀の古墳群で鬼ヶ城古墳群とも呼ばれます。貿易に関わる豪族の墳墓と考えられています。
奈良時代、平安時代
平安時代に櫛間院が置かれました。
鎌倉時代、南北朝時代
建武元年(1334年)に野辺久盛が櫛間院の地頭となり、翌年に野辺盛忠が櫛間城を築城して統治しました。南北朝時代に野辺盛忠は南朝方に属しましたが、貞和元年(1345年)に日向国守護の畠山直顕が南朝方を屈服しています。
室町時代、安土桃山時代
3代将軍足利義満の子・大覚寺義昭は、将軍足利義教から謀反の疑いをかけられて野辺氏を頼り永徳寺に身を潜めましたが、嘉吉元年(1441年)に将軍から討伐の命を受けた島津忠国に攻められて自刃しました。この大覚寺義昭事件で野辺盛仁は櫛間城を追われ、櫛間城には島津忠国の三男・伊作久逸が入りました。
島津久逸の乱
伊作久逸と志布志の新納忠続が争うようになると、島津宗家の島津忠昌は、伊作久逸を本領伊作に戻す決定を下しますが、伊作久逸はこれに反発して反乱を起こしました。島津忠昌に敗れた伊作久逸は伊作に移されて、文明18年(1486年)に豊州家島津家・島津忠廉が串間を領有しました。
秋月氏の統治
豊臣秀吉の九州征伐により、財部と串間は筑前の秋月種実が移りました。領主の秋月種長は財部に入り、串間には父の秋月種実が入り城下町の整備が進められました。秋月種長は慶長元年(1596年)に西林院を建立して秋月種実の遺髪を墓に埋めています。
江戸時代
高鍋藩が成立すると、串間は高鍋藩の飛び地として扱われました。元禄10年(1697年)に4代藩主秋月種政は都井岬牧をはじめとする藩牧を7カ所整備しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)の廃藩置県で高鍋藩は高鍋県となり、南部の串間は都城県に属しました。明治6年(1873年)に都城県が廃されて宮崎県となりますが、明治9年(1876年)に宮崎県が廃されて鹿児島県に統合されて、明治16年(1883年)に宮崎県が再設置されました。串間市は昭和29年(1954年)に発足しています。

崎田地区の旧海軍遺構
太平洋戦争時に旧海軍が水上飛行機の基地とした施設で、滑走路はありませんが給水塔や烹炊場跡などが残されています。