歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

えびの市

宮崎県のえびの高原

えびの市は宮崎、鹿児島、熊本3県の県境、南九州のほぼ中央に位置しています。部には九州山脈、南部にはえびの高原をはじめ霧島山地が連なります。宮崎県内で最多の泉源数と歴史を誇る京町温泉や県内最古の吉田温泉など温泉施設が多いです。

概要

面積
282.93km2
人口
17,042人(2022年2月1日)
市の木
キリシマアカマツ
市の花
エビネ
地図

歴史

えびの市域は島津荘の寄郡として真幸院が置かれました。北原氏が統治しましたが、家督争いで伊東氏が介入して、北原氏の旧臣が島津氏を頼ることで伊東氏と島津氏の抗争の地となりました。木崎原の戦いで伊東氏が大敗すると島津氏が統治するようになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

熊本県境の桑ノ木津留地区は旧石器時代後期から南九州各地に流通する黒曜石の原産地で、八幡丘遺跡からはナイフ型石器が発見されています。縄文時代早期の土器や調理の痕跡である集積遺構が各地で認められるようになり、川内川右岸の下鶯遺跡からは弥生時代後期から古墳時代の竪穴住居15棟や木棺墓などの遺構が発掘されています。桑田遺跡からはイネ科植物の化石が発見されて縄文時代晩期から稲作が始められたと考えられています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代になると平野部に前方後円墳、大淀川流域と加久藤盆地・大口盆地・肝属平野には九州南部の特徴的な地下式横穴墓、川内川流域に板石積石棺墓が造営されました。

宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群

島内地下式横穴墓群

5世紀末~6世紀初頭に造営された島内地下式横穴墓群からは、甲冑や刀剣などの副葬品が完全な状態で大量に出土しました。

宮崎県えびの市の小木原地下式横穴墓群

小木原地下式横穴墓群

古墳時代中期の5~6世紀に小木原地下式横穴墓群と称される400基以上の地下式横穴墓が造営されました。

宮崎県えびの市の真幸村古墳

真幸村古墳

川内川の南側に広がる台地上にある島内地下式横穴墓群の円墳12基が指定されていますが、1号墳(平松古墳)のみ現存しています。

宮崎県えびの市の飯野村古墳

飯野村古墳

円墳18基と地下式横穴墓13基が指定されていますが、現在見学できるのは千人塚と遠目塚と呼ばれる2基のみです。

奈良時代、平安時代

大化の改新による律令国家の成立に伴い全国が国郡里に分けられると、えびの市域は日向国諸県郡に属しました。各地に官道が結ばれ、えびの市域には真斫(真幸)駅が置かれました。天平15年(743年)の墾田永年私財法の制定により律令国家の基礎である公地公民制度が崩壊すると、荘園の開発が進められて南九州には日本最大の荘園である島津荘が成立しました。えびの市域は島津荘の寄郡である真幸院に属し、大宰府安楽寺領として日下部氏が任じられました。院司として任じられた日下部重貞は、永暦元年(1160年)に飯野城を築城しています。

鎌倉時代、南北朝時代

日下部氏は鎌倉幕府の執権北条氏と交誼を結び真幸院の実権を握りますが、幕府の滅亡とともに衰退しました。南北朝時代になると、日下部貞房の衰退により北朝方の畠山忠顕が一時期を支配しますが、康永4年(1345年)に肝付兼重の援助を背景に肝付氏氏族である北原兼幸が真幸院司として任じられました。

室町時代、安土桃山時代

真幸院を支配する北原氏は、応永3年(1396年)に北原範兼が長善寺を建立し、弘治3年(1557年)には北原家の菩提寺として剣神社が創建しました。応仁の乱を経て室町幕府の権威が失墜すると、南九州では島津氏と伊東氏がその覇権をかけて対立しました。衰退した北原氏は島津貴久の支配下に入り島津義弘が配置されました。

木崎原で戦い

元亀2年(1571年)に当主島津貴久が死去すると、これを好機と捉えて伊東祐安を総大将とする3千の兵が真幸院に侵攻しました。伊東祐信は加久藤城を攻めますが、守将川上忠智はこれを防ぎ伊東祐信や米良重方が討ち取られました。大将伊東祐安は敗残兵を纏めて木崎原で戦いますが伊東祐安を始め多くの重臣たちが討ち取られて島津氏が勢いづきました。

宮崎県えびの市の飯野城跡

飯野城跡

島津氏が統治を始めると真幸院の拠点として島津貴久の次男である島津義弘が入城しました。島津義弘は本丸に館を置いて26年間居城としました。

宮崎県えびの市の木崎原古戦場跡

木崎原古戦場跡

川内川と池島川に挟まれる平地に伊東軍をおびき寄せて伏兵で挟撃奇襲しました。伊東氏は衰退して島津氏が隆盛したため、九州の桶狭間や南九州の関ヶ原と言われています。

宮崎県えびの市の六地蔵塔

六地蔵塔

木崎原の戦いで多くの兵が犠牲となり、島津義弘は敵味方にかかわらず戦死者を弔うために六地蔵塔を建てました。

江戸時代

宮崎県えびの市の菅原神社

菅原神社

寛文5年(1665年)に馬関田郷の総鎮守として建立され、家畜の無病息災と五穀豊穣を願う全国的に珍しい牛越祭の舞台となりました。

宮崎県えびの市の榎田関跡

榎田関跡

薩摩藩と人吉藩を結ぶ球磨街道に置かれていた境目番所跡で薩摩藩内重要関所のひとつでした。天保8年(1837年)頃に番所役宅や定番住居が置かれました。

宮崎県えびの市の二俣川の巻かやし井堰

二俣川の巻かやし井堰

農業用取水堰として二俣川の護岸保護と川床の崩落防止や水路への取水口として220年~150年前に建造された堅固な構造の堰です。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治22年(1889年)の町村制施行に伴いえびの市が発足しました。昭和33年(1958年)に北霧島有料道路が開通して保養地としての整備が進みました。