北諸県郡
北諸県郡は、宮崎県の南西部に位置する都城盆地の東南にある三股町で構成されます。西側は都城盆地があり東側は鰐塚山地に囲まれています。市域は東西に大淀川の支流である沖水川が貫流しており、大淀川の支流が本流と合流するところから、水俣や三俣と呼ばれ三股と変化したと言われます。
概要
- 面積
- 110.02km2
- 人口
- 25,648人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 三股町
- 地図
歴史
平安時代中期に島津荘の寄郡である三股院(三俣院)が成立しました。島津氏庶流の樺山氏が統治しますが、南北朝時代の戦乱で抗争の地となりました。戦国時代末期に伊集院氏が都城に入り統治を行いますが、庄内の乱が起こり都城島津家(北郷氏)の統治を経て直轄領となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
北諸県郡は、発掘される土器などから旧石器時代から人が住んでいたことが伺われす。縄文時代後期前葉から中葉にかけて、長原遺跡などで土器や石器などの遺物が採集されています。長原遺跡は三方を山に囲まれた台地に位置し、北側の沖水川と南側の内之木場川に挟まれて狩猟採集に恵まれた環境でした。
古墳時代、飛鳥時代
現時点で古墳は発見されていませんが、諏訪廻第1遺跡から大型の溝状遺構と弥生時代終末から古墳時代前期にかけての甕形土器や壺形土器が出土し、梶山地区の中原遺跡では古墳時代の中期から後期にかけての集落跡が発見されました。
奈良時代、平安時代
平安時代中期の後半にあたる万寿年間(1024~28)に大宰府の大監である平季基が荘園を整備し、関白藤原頼通に寄進して島津荘が成立しました。北諸県郡は島津荘の寄郡である三股院(三俣院)となり、その統治は平季基の娘婿となる地元有力者の伴兼貞やその一族に委ねられました。伴兼貞の子伴兼任は三股町を流れる萩原川から萩原氏を名乗りました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府成立により惟宗忠久が薩摩国・大隅国・日向国の三州守護に任ぜられて島津忠久を名乗りました。島津忠久の母は比企家の娘のため、比企の乱で島津忠久が日向国の守護地頭職を罷免されると、建長2年(1250年)に鎌倉幕府執権の北条重時が日向国の守護地頭職を独占し、鎌倉幕府滅亡まで北条氏による統治が続きました。
室町時代、安土桃山時代
島津宗家4代島津忠宗の五男島津資久は、文保2年(1318年)に三股町樺山の地名から樺山姓を名乗りました。樺山資久は勝岡城を居城として統治しましたが、嫡子に恵まれず弟の北郷資忠の子北郷音久を迎えて家督を継がせました。応永元年/明徳5年(1394年)に北郷義久は和田正覚と高木氏を梶山城に配しましたが、今川貞世の四男尾崎貞兼と今川方の相良氏、伊東氏、土持氏、北原氏らに攻撃されました。
都城島津三代北郷久秀・弟忠通の墓
北郷義久は島津氏とともに梶山城の救援として北郷久秀と北郷忠通の兄弟を派遣しましたが、兄弟は討死して梶山城は落城しました。
江戸時代
豊臣秀吉の九州征伐ののち、豊臣家から高く評価された伊集院忠棟が北郷忠虎に代わり都城に入り三俣院を与えられました。島津義弘の三男島津忠恒は伏見の島津邸で伊集院忠棟を誅殺すると、その子伊集院忠真は都城に立て籠もり、勝岡城や梶山城を含む12城を修築して抵抗する庄内の乱となりました。庄内の乱が鎮圧されると都城島津家(北郷氏)が領しますが、慶長19年(1614年)に返上されて直轄地となり、三股町はお茶やごまの栽培が行われる農村となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に薩摩藩士の三島通庸が都城地頭として赴任すると、三股建設の大事業を起こして荒涼とした原野に政庁と学校を建設しました。明治10年(1877年)の西南戦争では田原坂の戦いで敗れた薩軍を政府軍が追い、三俣郷の山田川を挟んで戦闘となりました。
宮崎県の成立
西南戦争で薩軍が乱発した軍票を政府が補償しないため、宮崎県域での近代化は大きく遅れました。こうした不満などにより明治16年(1883年)に宮崎県が再設置されました。大正3年(1914年)には村全体の働きかけで三股駅が開通して交通の便が良くなりました。