西諸県郡

西諸県郡は霧島連山の南西部にある高千穂峰の東麓に位置します。日本最初の国立公園である霧島錦江湾国立公園の霧島山をとり囲むようにあります。水と緑に富んだ自然豊かな町で畜産業や農業を基幹産業としており、宮崎牛の産地で高原紅茶などの特産品があります。
概要
- 面積
- 85.39km2
- 人口
- 8,490人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 高原町
- 地図
歴史
縄文時代に住んでいた人びとは、霧島山の噴火により人が住まない地となりました。神武天皇の誕生地として日本神話と深く結びついており、高原町は高天原が転じたものと言われます。山林に覆われた地は、天台僧の性空が霧島山にて修験道場の基礎をつくりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の遺跡は確認されておらず、縄文時代前期の川除遺跡から曽畑式土器や轟B式土器、大谷遺跡から曽畑式土器が見つかりました。縄文時代中期になると高原畜産高校遺跡や椨粉山遺跡などで阿高式土器が出土しますが、火山の影響でしばらく人がいない状態が続き、弥生時代の遺跡は立山遺跡と荒迫遺跡の集落遺跡に限られます。
日本神話
高千穂峰は高天原から瓊瓊杵尊が降臨され、山頂には天の逆鉾が突き刺さり、高原町は高天原から転じたとされます。瓊瓊杵尊の孫にあたる神武天皇が降誕された地という伝承もあり、生誕から東征までこの地で暮らしたとされています。

皇子原公園
皇子原は神武天皇御降誕の地とされています。皇子原公園に遷座する皇子原神社のご神体である産場石は、産屋とも産湯を使用された場所とも伝えられています。

血捨之木
神武天皇が産まれたときに母の玉依姫が湧き出る泉で諸物を洗い清めて、その穢れを捨てた場所とされます。

祓原
神武天皇が産まれたときに身体を祓い清められた場所とされ、湧き出る清水を汲んでお祓いをされたと伝えられています。

高千穂宮
高千穂峰に降臨された瓊瓊杵尊が本拠として高千穂宮が設けられた地で、神武天皇が幼年時代に住処とされた場所と伝えられています。

狭野渡
松八重川の下流で神武天皇が宮を出発して東方へ向かわれる際、最初に渡られた川と伝わります。
古墳時代、飛鳥時代
これまでに4群107基の地下式横穴墓が見つかり、墓内の家屋表現や彩色がよく見られます。畿内の中央政権と何らかの関係がありましたが、6世紀前半頃から人口が減少していきました。

高原町古墳
皇子原の丘陵上にある円墳6基からなります。5世紀後半から6世紀前半頃のもので、古墳の詳細については不明ですが、地下式横穴墓とみられています。
奈良時代、平安時代
延暦7年(788年)に霧島山塊の御鉢が噴火で狭野社が焼失しました。9世紀に椨粉山遺跡などで畝状遺構が見つかりましたが、やがて使われなくなり山林化しました。天徳3年(959年)に天台僧の性空が霧島山に入るなど修験道場の基礎がつくられました。度重なる霧島山の噴火により、天永3年(1112年)に錫杖院や神徳院などが焼失し、仁安2年(1167年)に西生寺が焼失しました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代初頭には猪や鹿などの狩場になりましたが、文暦元年(1234年)の霧島山の大噴火で壊滅的な被害を受けました。応永16年(1409年)に島津久豊が霧島六所権現社に知行10町を寄進し、文明18年(1486年)に真言僧の円政が島津忠昌の命により錫杖院を復興しました。
室町時代、安土桃山時代
大永4年(1524年)に北原氏が北郷忠相に対抗するため高原城を築城しました。日向中部の伊東氏、真幸院の北原氏、薩摩国の島津氏の3氏による争いが続き、高原城は勢力争いの舞台となりました。天正4年(1576年)に島津義久や島津義弘ら島津勢が高原城を攻め落として島津氏の支配下に置かれました。豊臣秀吉が九州を平定すると、島津久保や島津義弘の領地となりました。
江戸時代
江戸時代に薩摩藩外城のひとつとなり、麓には地頭仮屋が置かれ鹿児島城下から綾まで綾往還が敷設されました。延宝8年(1680年)に高原郷から一部が分離して再編がなされました。享保元年(1716年)から新燃岳が爆発して霧島東社などが焼失しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で鹿児島県に所属しました。明治10年(1877年)の西南戦争で薩軍と政府軍が戦いました。明治16年(1883年)に宮崎県が設置されて北諸県郡に属したのち、翌年からは西諸県郡に属しました。