東諸県郡
東諸県郡は宮崎県のほぼ中央部に位置する国富町と綾町で構成されます。本庄川の中流にあたる中山間地域で、南部の平野部を除いてほとんどを森林が占めています。
概要
- 面積
- 225.82km2
- 人口
- 25,098人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 国富町、綾町
- 地図
歴史
諸県郡は牛諸井が諸県君として支配し、本庄古墳群が造営されました。奈良時代に百済の高僧日羅上人が訪れて岸壁に薬師如来を刻んでいます。領内は宇佐八幡宮領として土持氏が支配しましたが、鎌倉時代に下向した伊東氏が勢力を拡大して支配しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
東諸県郡では旧石器時代から人の営みがあり、打製石器などが発見されています。縄文時代後期には中央台地の尾立地区に尾立繩文遺跡が造営され、綾A式土器、B式土器が発掘されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代に景行天皇の孫にあたる久迩止美比古命が本庄を都として諸県地方を治められたことから国富などの地名が生まれました。久迩止美比古命の孫である牛諸井は諸県君として諸県郡一帯を支配しました。この諸県君の歴代の墓が本庄台地に造営された本庄古墳群と考えられています。
本庄古墳群
4~6世紀にかけて造営された前方後円墳17基、円墳37基、横穴墓2基、地下式横穴墓1基で構成され、高塚式古墳と南九州特有の地下式横穴墓が一緒にあるのが特徴です。
綾町古墳(王乃塚古墳)
4基の円墳で構成され、入野地区の円墳3基は四反田古墳、王乃塚古墳、スミ床古墳と呼ばれて古墳の近くからは地下式横穴墓が造営されています。
八代村古墳
本庄川の支流北俣川と一ツ瀬川の支流三財川に挟まれた台地上に位置する古墳です。昭和17年(1942年)の旧陸軍の飛行場建設で多くが破壊されました。
木脇村古墳
塚原地区の台地上を中心に分布する前方後円墳1基、円墳13基、横穴2基の16基が指定されています。
本庄町古墳
深年川に面する飯盛原台地の斜面地にある古墳で、横穴墓21基が指定されています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して大宝元年(701年)に日向国が成立すると、綾町の集落には亜椰(綾)駅が置かれて宿泊や馬の中継などが行われました。平安時代中期になると律令制は廃れて諸県郡の荘園は豊後国の宇佐八幡宮領となりました。宇佐八幡宮は日向国に土持氏を派遣し統治させたため、土持氏が豪族として勢力を伸ばしていきました。
日羅上人坐像
敏達天皇が百済から日本に招いた百済の高僧で聖徳太子も師事しました。竜宝山松森寺を開基して松森山山頂の岩壁に約6メートルの薬師如来像を造営しました。
本庄石仏
松森山と呼ばれる丘陵の中腹の岸壁に彫られた薬師如来像の磨崖仏で、地上から光背上端まで6メートル、肩幅約2メートルと巨大です。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代になると鎌倉幕府御家人の工藤氏が日向国を与えられ下向し、伊東を称して地頭となりました。土持氏は伊東氏との戦いで衰退していき、長禄元年(1457年)に土持景綱が伊東祐尭に小浪川の戦いで敗れて諸県郡は伊東領となりました。
室町時代、安土桃山時代
細川義遠が収納使として綾を領有して綾城を築いて綾姓を名乗りますが、8代将軍足利義政の頃に都於郡城を拠点とする伊東氏の直轄となり綾城は伊東家48城の1つとなりました。8代当主伊東尹祐は福永氏の娘を側室に迎え、長男を廃して福永氏の娘との間に生まれた男児に家督を譲ることを企図しました。これに讒言した長倉若狭守と垂水但馬守は永正7年(1510年)に綾城に立て籠もる綾の乱が起こりました。
伊東氏の繁栄と衰退
伊東尹祐が亡くなると、福永氏の娘との間に生まれた伊東祐充に家督が譲られ、福永一族が牛耳るようになりました。伊東祐充が病死すると叔父の伊東祐武が福永祐炳ら福永氏一族を滅ぼして都於郡城を占拠する伊東武州の乱が起こりますが、伊東祐充の兄弟である伊東義祐が都於郡城を奪還して当主となりました。伊東氏は元亀3年(1572年)に木崎原の戦いで敗れると衰退の一途をたどり、天正5年(1577年)に伊東義祐が豊後に落ち延びると、綾城は落城して島津氏が支配することになります。
綾城
足利尊氏の家臣細川小四郎義門が下向を命ぜられ、その子細川義遠が収納使として綾城を築いて綾を領有して姓を綾と名乗りました。
伊東義祐
伊東義祐は伊東四十八城を置くなど最盛期に導きますが、元亀3年(1572年)に木崎原の戦いで敗れて天正5年(1577年)に豊後に落ち延びました。
刀匠田中国広遺跡
田中国広は室町時代から江戸時代にかけて活躍した刀工です。綾町で生まれて伊東家に仕えましたが、伊東義祐の豊後落ちから各地を流浪するようになりました。
刀匠田中国広遺跡
天正15年(1587年)に伊東祐兵が飫肥藩主となると再び伊東氏に仕え、京都一条堀川で作刀に励み堀川国広と呼ばれる新刀界の第一人者となりました。
江戸時代
慶長20年(1615年)の一国一城令により綾城は廃城となり、諸県郡は鹿児島藩の直轄領となりました。正保2年(1831年)に国富町域は天領とされてから明治維新まで幕府直轄領となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治6年(1873年)に宮崎県に属し、明治9年(1876年)に鹿児島県に合併されましたが、明治16年(1883年)に宮崎県が再設置されました。大正時代から果樹栽培が盛んになり、八朔は昭和初期に綾八朔として全国有数の産地となりました。
籾木池
明治時代から東諸県郡の山林原野には県外から移住が始まり、大正3年(1914年)に籾木池が造営されて開田事業が進みました。
木脇教育隊跡
昭和18年(1943年)に開校して操縦訓練が行われましたが、昭和20年(1945年)に度重なる空襲を受けて閉鎖されました。
照葉大吊橋
昭和59年(1984年)に照葉樹林帯を体験する施設として架橋され、架橋当初は日本一の長さを誇る吊橋でした。
酒泉の杜
綾の湧水を使用して酒造する雲海酒造が全国的に珍しい酒のテーマパークとして平成元年(1989年)に開園しました。