児湯郡
児湯郡は宮崎県中央部にあたり、宮崎平野の北部で日向灘に面する地域と一ツ瀬川の源流部にあたる西米良村から構成されます。沿岸部は開拓されて田畑が広がり、西米良村は市房山、石堂山、天包山の米良三山を望む山間部です。
概要
- 面積
- 715.03km2
- 人口
- 66,486人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 高鍋町、新富町、西米良村、木城町、川南町、都農町
- 地図
歴史
旧石器時代から人の営みが残る児湯郡は、古墳時代に多くの古墳が造営されました。平安時代中期に荘官として土持氏が豪族として勢力を伸ばしますが、鎌倉時代に下向した伊東氏が土持氏を従えるようになりました。戦国の動乱で島津氏の支配下に置かれますが、豊臣秀吉の九州征伐により秋月氏が治めるようになり、江戸時代に高鍋藩秋月家の城下町として栄えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
尾鈴山を源流とする名貫川の上流に形成する尾鈴山瀑布群は、矢研の滝をはじめ30もの滝があります。こうした自然に恵まれる児湯郡は旧石器時代から人の営みがあり、宮崎県で最も古い人の生活の跡が残る後牟田遺跡などで狩猟採集を行う石器が発見されています。やがて人びとが定住するようになると、縄文時代早期には耳きれ遺跡などが造営され、弥生時代には持田中尾遺跡など北部や西部の丘陵地帯を中心に集落が形成されていきました。
矢研の滝
尾鈴山にある高さ73メートルの滝で日本の滝百選に選定されています。神武天皇が東征のときに滝の水で矢を研いだことで名付けられました。
紅葉の滝
30以上ある尾鈴山瀑布群のひとつです。
古墳時代、飛鳥時代
東平下2号方形周溝墓
標高50メートルほどの唐瀬原台地に弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけて造営された周溝墓です。
川南古墳群
標高60メートルの国光原台地の南側に4世紀から6世紀末に造営された古墳群です。49基のうち24基が前方後円墳で6世紀前半の須恵器などが出土しています。
持田古墳群
4世紀から6世紀にかけて小丸川北部の台地に前方後円墳9基と帆立貝式古墳1基、円墳75基の総数85基が造営されました。
新田原古墳群
持田古墳群と同じ時期に前方後円墳25基、方墳2基、円墳180基の古墳が造営されました。新田原古墳は宮崎県で2番目の規模があります。
奈良時代、平安時代
日向国が成立すると、日向国は5つの郡に分けられました。児湯郡は現在の西都市含む範囲で、郡衙は西都市に置かれたと考えられています。伝承によれば天平勝宝8歳(756年)に百済福智王が蚊口浦に上陸したとされています。平安時代中期に律令制が廃れていくと、荘園は豊後国の宇佐八幡領となり土持氏が統治しました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代になると鎌倉幕府御家人の工藤氏が日向国を与えられ下向し、伊東を称して地頭となりました。土持氏は伊東氏との戦いで衰退していき、長禄元年(1457年)に土持景綱が伊東祐尭に小浪川の戦いで敗れて児湯郡のほとんどは伊東領となりました。
室町時代、安土桃山時代
肥後国守護菊池能運は、室町幕府の追討による菊池一族の根絶を防ぐため、孫の菊池国重を米良へ落ち延びさせ、菊池国重の子菊池重次は菊池姓を隠して米良重次と名乗りました。
元亀3年(1572年)に木崎原の戦いで島津氏に大敗した伊東氏は衰退して、当主伊東義祐は島津氏の猛攻に耐えかねて天正5年(1577年)に豊後国大友宗麟を頼り落ち延びました。
耳川の戦いと九州征伐
伊東義祐の要請を受けた大友宗麟は、天正6年(1578年)に日向国にキリスト教国をつくるため3万の大軍を率いて侵攻して高城を囲みました。大友氏は高城川合戦場跡を主戦場とする耳川の戦いで大敗して豊臣秀吉に助けを求め、この要請に応じた豊臣秀吉は島津氏を討伐すべく九州征伐を行いました。島津氏は戸次川の戦いで豊臣軍の先方隊を破りますが豊臣軍本隊が到着すると形勢は逆転し、天正15年(1587年)に高城を包囲した豊臣秀長と根白坂で戦いとなりました。島津氏は敗れて全面降伏し、日向財部は秋月種長が筑前より転封されました。
小川城址
承応年間(1652~55年)に米良則重は小川城を築城して米良一帯を領しました。
高城城址
堅牢な山城で伊東氏の要請で侵攻した大友3万の大軍に囲まれましたが、高城城主山田新介有信は籠城してこれを防ぎました。
高城川合戦場跡
島津氏は釣り野伏で大友氏の大軍に圧勝して田北鎮周や佐伯惟教、角隅石宗ら重臣が討死し2万の兵が討ち取られました。
宗麟原供養塔
島津義久は山田有信に命じて宗麟原供養塔を建立し、この戦いで討死したすべての者を敵味方関係なく弔いました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与した秋月種長は、所領を安堵されて高鍋城を居城として高鍋藩を立藩しました。また米良重隆は菊池氏の直系を認められて肥後人吉相良家の附属として本領を安堵されました。南部の佐土原藩は島津以久が治めて新富町の台地に新田牧を開設して軍用馬の放牧などを行いました。
高鍋藩
慶長19年(1614年)に初代藩主秋月種長が死去すると、家督相続を巡り家老白井種盛が反対派を粛正する上方下方騒動に発展しました。7代高鍋藩主秋月種茂は、5代藩主秋月種弘の稽古所を踏襲する形で安永7年(1778年)に藩校明倫堂を開校しました。
米良領
米良領主米良則忠は、かつて菊池氏が尊皇派として活動していたことから、幕末の尊王攘夷運動で尊皇派として行動するようになります。
高鍋城址
宇佐八幡宮の神官から土着した土持氏の城で伊東48城のひとつとなり、高鍋藩が立藩すると高鍋藩主の居城となりました。
湯之宮座論梅
高鍋藩と佐土原藩で梅林の所有の争いが起こり両藩士がこの地で座して論議したことから座論梅と呼ばれるようになりました。
湖水ケ池
高鍋藩は飢饉などで水請を祈祷していた湖水ケ池でレンコン栽培を始めて藩財政の立て直しを図りました。
甲斐右膳父子墓
米良則忠の命を受けて文久3年(1863年)に京都で上京の勅書を得ることに成功しましたが、京都に向かう途中に人吉藩に捕らえられて父子とも獄死しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で高鍋藩は高鍋県となり、やがて美々津県、宮崎県、鹿児島県に統合されますが、明治16年(1883年)に宮崎県が再設置されました。昭和16年(1941年)に太平洋戦争が勃発すると新田原に陸軍飛行演習場が設置され、昭和20年(1945年)に高鍋が空襲を受けました。終戦を迎えると危機的な食糧不足を解消するため明治44年(1911年)から進められていた開拓事業が再開され、青森県十和田市、福島県矢吹町とともに日本三大開拓地と呼ばれるようになりました。
石井十次生家
石井十次は明治20年(1887年)に日本で最初めての孤児院となる岡山孤児院を創設し、明治45年(1912年)に茶臼原にも設立しました。
日向新しき村
大正7年(1918年)に文豪武者小路実篤が同志とともに理想郷を目指して開村しました。武者小路実篤はここで農業にいそしみながら文筆活動を行いました。
高鍋大師
昭和6年(1931年)には岩岡保吉が発掘や盗掘された持田古墳群の霊を慰めるため開山しました。
高鍋湿原
高鍋の干拓事業による水不足を解消するため高鍋防災ダムを建造しているときに湧水が流れ込んで高鍋湿原が生まれました。