東臼杵郡

東臼杵郡は宮崎県の北部に位置し、九州山地の険しい山間部から日向灘の沿岸部まで広がる地域です。山間部は林業や焼畑農業などの山村文化が残りシイタケ栽培が盛んで、椎葉村は平家落人伝説が残る日本三大秘境のひとつです。日向灘に面した門川町は温暖な気候で、美しいリアス式海岸が連なります。
概要
- 面積
- 1,294.21km2
- 人口
- 25,628人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 門川町、諸塚村、椎葉村、美郷町
- 地図
歴史
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、平家の残党は各地に落ち延びていきました。平家追討を命じられた那須与一は弟の那須大八郎宗久を椎葉に派遣しましたが、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、二人の間に生まれた子が椎葉を治めたとされます。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
耳川流域では古くから人が生活し、向内野々遺跡から旧石器時代のナイフ形石器が見つかりました。縄文時代後期から遺跡が見つかり、門川湾沿岸の門川南町遺跡や五十鈴川流域の文蔵遺跡などが見つかり、中村遺跡から弥生時代後期の土器片が出土しています。

乙島
門川湾にある周囲4キロ、標高80メートルの小高い無人島で暖地性植物が群生しています。尾鈴山石英斑岩と呼ばれる柱状節理の岩盤から成り、島の周囲には大小7つの海触洞穴があります。

鬼神野・栂尾溶岩渓谷
小丸川上流の南郷村と椎葉村の村境である鬼神野・栂尾地区の渓谷にあります。約1億年前の中生代に深海底で噴出した溶岩が急冷されて枕状に固結したものです。
古墳時代、飛鳥時代
五十鈴川下流域にはかつて塚ノ原古墳と呼ばれる前方後円墳がありましたが、昭和初期の耕地整理で消滅したとされます。このほか西郷村古墳を始めとする円墳や横穴墓が造営されました。
禎嘉王の伝説
斉明天皇6年(660年)に朝鮮半島の百済が滅亡し、天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで倭国の援軍も大敗したことで、百済は歴史から姿を消すことになります。百済の禎嘉王は厳島経由で日向へと向かいますが、船が難破して禎嘉王とその息子である福智王は離れ離れになりました。禎嘉王は南郷区神門に居を定め、福智王は児湯郡木城町に居を構えますが、やがて追討軍が差し向けられ、禎嘉王は流れ矢を受けて戦死したと伝えられています。

西郷村古墳
鳥ノ巣集落の南西にある標高400メートルほどの山間部にある直径10メートルの円墳です。鳥の巣古墳とも呼ばれ、直刀や鉄鏃、鉄剣などが出土しました。

門川町古墳
門川町の尾末地区と下納屋地区にある円墳2基と横穴墓4基です。

南郷村古墳
美郷町南郷区の神門地区にある2基の円墳です。百済から亡命した王族やその関係者にまつわる伝承が残されており、1号墳は禎嘉王、2号墳は禎嘉王に味方した地元の豪族の墓と伝わります。

西の正倉院
天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた百済の禎嘉王は、日向国に流れ着き美郷町神門に居を構えました。南郷村では百済由来の唐花六花鏡が見つかりました。
奈良時代、平安時代
律令体制の整備に伴い、東臼杵郡は臼杵郡の一部となりました。平野部は荘園が開かれて宇佐神宮に寄進されました。寿永4年(1185年)に壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は各地に落ち延び、椎葉村は平家落人の隠れ里の一つとなりました。
鎌倉時代、南北朝時代
日向国の平地部では土持氏が地頭の地位を得て大きな勢力を誇りましたが、秘境の山間部には土持氏の影響が及ばず独自の文化を形成していきました。
椎葉村の平家落人伝説
平家追討を命じられた那須与一は、弟の那須大八郎宗久を日向国に派遣しました。那須大八郎宗久は貧しく静かに暮らす平家落人たちを見て追討を断念し、椎葉に留まることを決意しました。那須大八郎宗久は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、二人の間に生まれた子が椎葉を治めたとされます。

十根川集落
周囲を山林に囲まれた標高550メートルほどの急斜面にある山村集落で、平家落人伝説が残ります。美しい石垣と並列型民家と呼ばれる細長い平家が特徴で、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

小松石塔群
日蓮宗定善寺末寺の小松寺に係る石塔群で、県下最大級の五輪塔や室町時代の板碑など五輪塔528件、板碑20件が確認されており、応永2年(1395年)の最も古いものになります。
室町時代、安土桃山時代
永正10年(1513年)に阿蘇氏の重臣北里伯耆守為義が阿蘇家の内紛で追われ、立岩・桂集落で玉砕しました。九州を平定した豊臣秀吉は、延岡の地を高橋元種に与えました。高橋元種は文禄の役と慶長の役に出兵して朝鮮陶工を連れ帰り、庵川窯を開きました。
江戸時代
江戸時代に入ると大部分が延岡藩の領地となり、椎葉山中の一部は人吉藩が管理しました。椎葉山中は那須大八郎の子孫を称する那須一族ら十三人衆が実質的に支配しましたが、元和5年(1619年)に十三人衆との対立が生じて椎葉山騒動となりました。幕府は騒動を鎮圧して椎葉を天領としました。

那須家住宅(鶴富屋敷)
江戸時代後期の文政年間に建てられたと考えられる椎葉民家の代表的なものです。土間とウチネ(居間)、ツボネ(寝間)、デイ(客間)、コザ(仏間)の4室があります。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)に富高県が配置されて日田県の管轄となり、人吉県や宮崎県、鹿児島県などに変更されましたが、明治16年(1883年)に宮崎県となりました。明治10年(1877年)の西南戦争では西郷隆盛が九州山地を突破して鹿児島へと向かいました。
