歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

西臼杵郡

宮崎県西臼杵郡の五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷)

西臼杵郡は宮崎県の最北西端に位置し、祖母山の南部で急峻な山地と台地上の地形からなります。五ヶ瀬川が西北から南東にかけて貫流し、神秘的かつ雄大な高千穂峡などの渓谷が形成しました。森林が8割以上を占める寒冷な地域で、日本最南端の天然のスキー場があります。

概要

面積
686.94km2
人口
18,289人(2021年11月1日)
含む町村
高千穂町、日之影町、五ヶ瀬町
地図

歴史

天岩戸開きや天孫降臨などの神話の地として知られます。天照大神が素盞鳴尊の悪行に困り果てて隠れた天岩戸があり、天照大神の命で瓊瓊杵尊が降臨したとされます。瓊瓊杵尊がたくさんの稲穂を蒔いた伝説から高千穂の由来となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の出羽洞穴からナイフ形石器などが出土しています。縄文時代には尾谷遺跡、東平遺跡、岩上遺跡、陣内遺跡、セベット遺跡、梅ノ木原遺跡などが確認されています。山間部は稲作農耕があまり広がらず、薄糸平遺跡などの弥生時代中期以降の遺跡が発見されています。

宮崎県西臼杵郡の五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷)

五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷)

幾何学的な岩の造形とエメラルドグリーンの水面が生み出す九州を代表する神秘的な渓谷です。阿蘇火山活動の噴出した火砕流が五ヶ瀬川に流れ出し、急激に冷却されて柱状節理の懸崖を形成しました。

宮崎県西臼杵郡の陣内遺跡

陣内遺跡

大字三田井字車迫にある縄文時代後期から晩期の遺跡で、縄文時代後期の土器や先端に彫刻がある石棒や土偶などが出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

弥生時代後期に各地で地域的な統合が進み、首長の墓として地域色豊かな墳丘墓が出現しました。高千穂町では前方後円墳2基、円墳24基、横穴89基が確認されており、高千穂地方にしか見られない特殊な形をした横穴墓が残されています。

日本神話の郷

天照大神が弟の素盞鳴尊の奇行に怒り天岩戸に隠れたとき、世界は闇に包まれて災いが起こるようになりました。神たちは天安河原で会議を開いて踊り手の天鈿女命が舞い踊り、その様子が気になる天照大神が岩戸を開けると力自慢の手力雄命が天照大神を岩戸から連れ出しました。天照大神は瓊瓊杵尊を地上への降臨を命じ、八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣の三種の神器を携えて高千穂に降臨し、瓊々杵尊がたくさんの稲穂を蒔いた伝説から高千穂の由来となりました。

宮崎県西臼杵郡の天安河原

天安河原

素戔嗚命の悪行に困り果てた天照大神が天岩戸に隠れたとき、神たちが集結して策を練りました。天鈿女命の舞い踊る歓声に誘われた天照大神は、岩戸から連れ出されたとされます。

宮崎県西臼杵郡の吾平山上陵伝承地

吾平山上陵伝承地

天孫降臨した瓊々杵尊の孫にあたる鵜萱草不合尊の御陵と考えられています。鵜萱草不合尊は玉依姫を妃となし、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊をお生みになりました。

宮崎県西臼杵郡の高千穂町古墳

高千穂町古墳

高千穂町内には未指定の横穴墓群も多く存在しており、吾平山上陵伝承地の近くには古墳群が形成しています。54基が県史跡に指定されましたが、35基が所在不明のため解除されました。

宮崎県西臼杵郡の岩戸村古墳

岩戸村古墳

日之影町の円墳1基と高千穂町に分布する横穴墓7基で構成されます。横穴墓は岩戸川流域の丘陵地斜面に築かれており、玄室は阿蘇溶結凝灰岩を掘り抜いて造られています。

宮崎県西臼杵郡の七折村古墳

七折村古墳

日之影川流域の大菅地区と平清水地区に分布する古墳群です。大菅地区には円墳2基と横穴墓2基があり、平清水地区には3基の横穴墓がありますが、そのほとんどの詳細は不明です。

宮崎県西臼杵郡の田原村古墳

田原村古墳

大字河内の4基の円墳と大字五ヶ所の2基の円墳、大字田原に所在する20数基の横穴墓から構成されます。このうち田原中学校内に31号横穴墓が残されています。

宮崎県西臼杵郡の三ヶ所村古墳

三ヶ所村古墳

鳥ノ巣地区と小半田地区にある2基の前方後円墳で構成されています。1号墳の鳥ノ巣古墳は墳丘の形は変形されて楕円状の平面形で、2号墳の小半田古墳は2基連接した円墳の可能性が高いです。

宮崎県西臼杵郡の上野村古墳

上野村古墳

上野川より西側の大字上野と東側の大字下野に分布する円墳と横穴墓群で、大字上野の町ノ平・平底・戸ノ口地区には未指定の横穴墓が多数存在しているとされます。

奈良時代、平安時代

律令体制が整備されて日向国臼杵郡が設置されました。荘園化が進んで高千穂荘が成立して、興呂木氏やその子孫の三田井氏が支配したと考えられています。豊後国の大神大太惟基の長男は三田井氏の養子となり高千穂太郎を名乗り、これ以降高千穂荘は高千穂氏が支配しました。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉幕府が成立すると、高千穂氏が地頭職に任命されました。鎌倉幕府が滅亡して南北朝の争乱の時代を迎えると、高千穂氏は三田井氏に改称しました。

宮崎県西臼杵郡の吉野朝勤王家柴原又三郎の墓

吉野朝勤王家柴原又三郎の墓

芝原又三郎入道性虎は、興国2年(1341年)に後村上天皇の綸旨と懐良親王の令旨を受け、南朝方の阿蘇氏や菊池氏に与して北朝方の小弐、大友氏と戦いました。

室町時代、安土桃山時代

三田井氏は豊後国守護の大友氏と結んでいましたが、大友氏が島津氏に耳川の戦いで敗れると島津氏に味方して阿蘇の高森城攻めで先鋒を務めました。九州を平定した豊臣秀吉から延岡を与えられた高橋元種は、天正19年(1591年)に三田井氏の重臣・甲斐宗攝を唆して三田井親武を討ち取りました。文禄4年(1595年)には甲斐宗摂の中崎城を攻略し、慶長2年(1597年)には三田井重武が自刃したことで三田井氏は滅亡しました。

江戸時代

延岡藩を立藩した高橋元種は、高千穂地方も支配下に置きました。延岡藩家老・藤江監物が岩熊井堰の工事を始めますが、享保16年(1731年)に軍用金を流用した讒言で捕らえられて日之影町の獄舎で獄死しました。水田が少なく苦しい生活をしていた人びとは、宝暦5年(1755年)には山裏村の農民が豊後岡藩の領内に逃散する事件が起きました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で延岡県に属し、美々津県や宮崎県、鹿児島県を経て、明治16年(1883年)に再び宮崎県となりました。明治10年(1877年)の西南戦争では三田井小坂峠をはじめ高千穂町の各地で戦いとなり、延岡で軍を解散した西郷隆盛は可愛岳を突破して鹿児島へ向かいました。アジア太平洋戦争では学童などが疎開し、ガソリンの代替燃料として松根油の製造所が置かれました。昭和37年(1962年)まで土呂久鉱山で毒薬の亜砒酸の製造が行われ、慢性砒素中毒症の健康被害を発症する公害が発生しました。