鹿屋市
鹿屋市は九州南東部で大隅半島の中央部に位置します。北西部には日本の自然百選にも選ばれている高隈山系が連なり肝属平野の中央を肝属川が流れています。温暖な気候を活かした農業と畜産業が盛んで日本最大級のバラ園かのやばら園があります。
概要
- 面積
- 448.15km2
- 人口
- 100,346人(2022年2月1日)
- 市の木
- クス
- 市の花
- バラ
- 市の花
歴史
鹿屋市は古くから人の営みがあり、やがて各地と交易を行い翡翠や勾玉などを得ていました。大隅隼人は大和王権に反抗することがあり、隼人の乱では大和政権に鎮圧されました。平安時代から豪族の肝付氏が勢力を伸ばしますが、守護職の島津氏に支配されるようになり明治時代を迎えました。第二次世界大戦では特攻基地の拠点となり、多くの特攻隊員が出撃していきました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
鹿屋市は旧石器時代から人の営みがあり、高隈山系で産出する水晶や石英を素材とした細石核、細石刃などが榎崎遺跡や西丸尾遺跡などで見つかりました。縄文時代早期の遺跡からは縄文土器や石器のほか益畑遺跡では住居跡2軒や土壙墓160基が発見され、弥生時代中になると大集落を形成するようになりました。
鹿屋
シラス台地に覆われた台地です。
王子遺跡
竪穴住居跡27軒や建物跡14軒などの遺構が発見され、九州北部や瀬戸内地方と交流して土製勾玉などの装飾品などを得ていました。
古墳時代、飛鳥時代
鹿屋市内では5世紀中頃から前方後円墳や円墳、南九州に多く見られる地下式横穴墓が建造されました。古墳時代後半になると祓川地下式横穴墓群からは大隅半島で2本目となる蛇行剣が発見されるなど、朝鮮半島から伝えられた鉄で鉄製品が作られています。
岡崎古墳群(15号古墳)
広い範囲で交流が行われており、新潟県糸魚川流域産のものとされるヒスイが発見されています。。
奈良時代、平安時代
飛鳥時代から奈良時代にかけて隼人と呼ばれる地方豪族が鹿屋を拠点として大和王権に服属や反抗を繰り返しました。和銅6年(713年)に日向国から分国して大隅国が設置されて霧島市に国衙が置かれますが、養老4年(720年)に国司に任命された陽候史麻呂が隼人に殺害される事件が起こり、朝廷が隼人を平定しました。
島津荘の成立
太宰府の役人平季基が島津荘を整備して摂関家に寄進し、鹿屋市は島津荘と正八幡宮領に分かれました。康保5年(968年)に肝付氏の祖である伴兼行が薩摩国惣追捕使として赴任し、その子孫である伴兼行が長元9年(1036年)に肝付氏を名乗り、島津荘の荘官として土着しました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治元年(1185年)に源頼朝の命を受けて島津忠久が地頭として島津荘を管理するようになると、肝付氏は島津氏と対立するようになりました。南北朝時代になると肝付氏は後醍醐天皇側の南朝について北朝の島津氏と争いました。この頃の正平6年(1351年)に高隈郷の総鎮守として中津神社が創建されています。
室町時代、安土桃山時代
薩摩国守護の島津義久は大隅半島南部を領有する禰寝重長を味方につけ、北郷時久とともに肝付兼亮を攻めました。肝付氏は牛根城(垂水市)を失い、天正2年(1574年)には廻(霧島市)と市成(輝北町)を島津氏に差し出して降伏しました。島津氏は最終的に高山以外のすべての領地を奪い、天正8年( 1 5 8 0年)には鹿屋領主の肝付兼護を薩摩国日置郡阿多(南さつま市)に移して伊集院忠棟に与えました。文禄4年(1595年)に伊集院忠棟が都城に封じられると、慶長2年(1597年)に垂水島津家の島津久信が私有地としましたが、元和2年(1616年)に島津久信が隠居したことで島津宗家の直轄地となりました。
鹿屋城
天正8年( 1 5 8 0年)に伊集院忠棟が領主となり城下町などを整備しましたが、伊集院忠棟は文禄4年(1595年)に豊臣家から都城八万石に封じられました。
江戸時代
享保9年(1724年)に島津久儔が花岡島津家を興しました。花岡島津家の領内はシラス台地で、雨水がすぐに地下に吸い込まれるため飲料水にも困る土地でした。島津久儔は開墾することができず、2代領主島津久尚の夫人岩子が用水路を安永9年(1780年)に完成させています。
鶴羽城
享保9年(1724年)に3代藩主島津綱貴が次男島津久儔に大姶良郷のうち木谷などを与え、木谷を花岡と改めて花岡島津家を興しました。
花岡島津家菩提寺
花岡島津家は真如院を菩提寺としました。真如院跡地には花岡島津氏歴代の墓石が並んでいます。
笠野原土持堀の深井戸
文政~天保年間(1818~41年)に笠野原台地に掘られた井戸で、深さ64メートルあります。現存する深井戸で最も原形をとどめ、牛馬で水をくみ上げていた跡も残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和16年(1941年)に太平洋戦争の切欠となる鹿屋会談が行われ、ハワイ真珠湾での奇襲作戦が練られました。鹿屋基地の淵田美津雄中佐は、真珠湾攻撃を想定した海面すれすれに飛行する浅海面雷撃訓練を鹿児島湾で行いました。昭和20年(1945年)には鹿屋基地や串良基地が特攻の基地となり米軍の爆撃を受けました。終戦後は進駐軍アメリカ海兵隊が金浜海岸から上陸しています。
野里国民学校跡
海軍第721航空隊を基幹とした神雷特別攻撃隊の隊員が集まる宿舎として国民学校校舎があてがわれました。
鹿屋特攻基地の碑
鹿屋基地や串良基地から多くの特攻隊員が出撃しました。鹿屋市は鹿屋基地から出撃した908名の若き隊員の御霊を祀るため、昭和33年に慰霊碑を建立しました。