枕崎市

枕崎市は薩摩半島南西端に位置し、豊かな自然と東シナ海の青い海が広がります。枕崎漁港は日本屈指のカツオの水揚量を誇り、かつお節の生産量が日本一を誇ることから、太陽とカツオの町と呼ばれています。
概要
- 面積
- 74.78km2
- 人口
- 19,438人(2022年2月1日)
- 市の木
- ツバキ
- 市の花
- キク
- 地図
歴史
島津氏の勃興とともに坊津が海上交易の拠点として繁栄すると、枕崎にも船が来航するようになりました。江戸時代中期にかつお節の製法が伝わり、大正時代に原耕が造船所を整備して南方漁業を開拓すると、カツオの水揚量が増えて、カツオ節の生産量が盛んになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
奥木場遺跡や二本木遺跡などで旧石器時代の遺物が発見されています。縄文時代には鞍谷遺跡などから土器が出土しています。深浦遺跡からは縄文時代から古墳時代の土器などが出土しています。

松之尾遺跡
弥生時代末期から古墳時代初頭の遺跡で、土器、刀剣のほか貝輪が見つかり、土壙墓から人体が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
特に記録は見つけられませんでした。
奈良時代、平安時代
特に記録は見つけられませんでした。
鎌倉時代、南北朝時代
寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、落人が枕崎北部の金山地区を開拓して定住した伝承があります。

桜之城跡
薩州家2代島津国久は四男島津秀久を桜之城に置いて鹿籠坊泊方面を支配させました。
室町時代、安土桃山時代
喜入や指宿を領有していた島津季久は、喜入姓を称して鹿籠郷も領有するようになりました。文禄3年(1594年)の太閤検地で庄屋の山村与三が役人と争いを起こしたため鹿籠郷を没収されましたが、喜入忠政のときに鹿籠郷の復帰が許されました。

喜入氏累代の墓
天正6年(1578年)に鹿籠領主となる喜入季久から、明治2年(1869年)の版籍奉還を迎えた喜入久博までの墓所です。

硫黄山岩崎寺跡
一乗院の末寺として位置づけられている寺院で、文禄3年(1594年)に流配された左大臣近衛信輔卿がよく参詣されていました。
江戸時代
地元郷士の有川夢宅は天和年間(1681~84年)に鹿籠金山を発見し、薩摩藩が採掘をはじめて明治時代に民間が所有するようになると、明治13年(1880年)には五代友厚が所有して昭和40年(1965年)まで採掘が続けられました。宝永4年(1707年)に紀州印南浦の漁師甚太郎らがかつお節の製法を伝え、森弥兵衞によりかつお節生産が創始されました。
享保の唐物崩れ
享保年間(1716~35年)に薩摩藩は享保の唐物崩れと呼ばれる民間密貿易の取締りを行いました。坊津の海商や密貿易船は枕崎に逃散し、枕崎は多くの船舶を保有する漁港となりました。領主の喜入氏は船主にカツオ漁やかつお節製造の権利を与えたことでかつお節産業が根付きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
原耕は私財を投じて造船所を建設して大型漁船を建造しました。原耕は大正14年(1925年)から昭和初期にかけて動力船を導入して南方漁業の開拓を行い、近代カツオ漁の祖となりました。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)には空襲被害に遭い、戦後間もない枕崎台風では12人が亡くなり、昭和26年(1951年)のルース台風では27人が亡くなりました。

平和祈念展望台
戦艦大和を旗艦とする第二艦隊が米軍機と交戦して戦艦大和、巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風、濱風、霞、朝霜6隻の戦艦と3721名が海の藻屑となりました。