阿久根市

阿久根市は鹿児島県の北西部に位置し、東シナ海に面しています。古くから海陸交通の要衝として栄えてきました。紫尾山系などの丘陵が広がるため平地は広くありませんが、日本三大急潮の黒之瀬戸や牛之浜などの景勝地があります。
概要
- 面積
- 134.29km2
- 人口
- 18,641人(2022年2月1日)
- 市の木
- ボンタン
- 市の花
- つわぶき
- 地図
歴史
大宰府の大監である平季基が英祢院を開拓しました。英祢院は神埼荘の神埼太郎成兼が下向して莫禰(英祢)氏を名乗るようになりました。莫禰氏は鎌倉幕府の御家人となり、のちに薩州島津家の家老になりました。やがて阿久根氏を名乗るようになり、地名も阿久根となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
狩猟採集が行われていた縄文時代前期は、高松川の海岸近くの台地斜面に波留貝塚が造営されました。新田川近くの台地には宮脇遺跡が造営されています。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀中頃には大和王権の影響を受けた県内最古の高塚古墳である鳥越古墳が造営されました。埋葬施設は竪穴式の石室でガラス玉も出土しています。6世紀頃には脇本上原に横穴式石室2基、地下式板石石室1基、箱式石棺1基の新田が丘古墳群のほか脇本古墳群が造営されました。

脇本古墳群
脇本古墳群は新田が丘古墳と糸割渕古墳の総称で、横穴式石室がある古墳として東シナ海側の南限になります。墳丘等はありませんが、鉄剣や鉄鏃などが見つかりました。
奈良時代、平安時代
平安時代末期に英祢院と呼ばれた阿久根は、大宰大監の平季基の子・神埼兼輔が神埼荘とともに英祢院を統治するようになり、のちに子孫の神埼太郎成兼が領有して莫禰氏(英祢氏)を名乗るようになりました。この頃に大宰府から薩摩国府(薩摩川内市)へと向かう古代官道も通じ、阿久根には英袮駅が置かれたと言われます。
鎌倉時代、南北朝時代
神埼兼輔の子・神埼成光は、建久8年(1197年)に鎌倉幕府の御家人となり、阿久根城を築いて支配を固めました。弘長2年(1262年)には莫禰成友が山門院の折口、多田などを領土に加えました。
室町時代、安土桃山時代
宝徳3年(1451年)に薩州島津家が成立すると、莫禰良忠は阿久根に改称して薩州島津家の家老となりました。文禄2年(1593年)の九州討伐で薩州島津氏の領地が没収されると、阿久根一族は各地に離散して阿久根の地名だけが残されました。
江戸時代
阿久根は陸海の交通の要衝となり、出水筋が整備されると阿久根宿が置かれ、脇本と倉津には津口番所が置かれて船や積荷等の検査が行われました。中国から日本に帰化した藍会栄は、のちに河南源兵衛を名乗り唐通詞(中国語通訳)として密貿易に関わり、やがて藩の御用商人として藩の財政に貢献して幕末には大型船を保有する豪商に成長しました。
産業の発達
安永年間には南九州で初めて本格的な陶器窯として脇本窯が置かれました。寛永年間には阿久根に移住した折口伊兵尉重芳が焼酎造りに成功し、完成した焼酎は薩摩藩主島津光久から阿久根諸白の名を与えられました。安永元年(1772年)に阿久根に漂着した中国清朝の貿易商・謝文旦によりボンタンが伝わり、ボンタンの栽培が始められました。

牛之浜景勝地
東シナ海に面する奇岩奇礁の乱立する海岸で、夕陽の名所でもあります。文政元年(1818年)に儒学者の頼山陽が訪れて阿嵎嶺と呼ばれる詩を詠みました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で鹿児島県に属しました。明治45年(1912年)に医師の中村静興が高松川沿いで阿久根温泉を発掘し、温泉旅館が建ち並んで中心街が形成していきました。アジア太平洋戦争の空襲で大きな被害を受けましたが、昭和49年(1974年)に黒之瀬戸大橋が完成しました。