出水市
出水市は鹿児島県の北西部に位置します。北部は八代海(不知火海)に面しており、東部は矢筈岳を主峰とする肥薩山脈が北東に走り、南部は紫尾山を中心とする紫尾山系が東西に伸びています。市域の大半は山地と扇状地であり、米ノ津川とその支流がそれぞれ八代海(不知火海)に流れ込みます。毎年10月から3月まで約1万羽以上のツルが越冬のために渡来する鶴の町として有名です。
概要
- 面積
- 329.98km2
- 人口
- 51,534人(2022年2月1日)
- 市の木
- イヌマキ
- 市の花
- ツツジ
- 地図
歴史
上場高原などの丘陵で生活していた人びとは、やがて低地に下り米ノ津川の流域などで生活するようになりました。平安時代に島津荘に組み込まれて島津氏の支配下に置かれ、一時相良氏などの影響下に置かれたことを除いて、明治時代まで島津氏が統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
古代の人びとは丘陵で狩猟採集を行い生活しており、上場高原にある上場遺跡では黒曜石の石器のほか我が国初の旧石器時代の住居跡が発見されています。やがて人びとは低地へと移動するようになり、白石川流域の斜面には縄文時代前期から後期に江内貝塚が造営されました。弥生時代中期の六反ケ丸遺跡からは木製の弓が発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
米ノ津川左岸の洪積台地の緑辺部に溝下古墳が築造されました。地下式板石積石室墓の形態は南九州独自の墓制で、熊本県天草・芦北地方や出水市など八代海沿岸部、熊本県の球磨川上流域部、川内川流域部で見られます。
奈良時代、平安時代
舒明天皇2年(630年)に始めて遣唐使が行われるようになり、唐から政治や法律、仏教の経典、芸術などを取り入れるようになりました。この時代は航海術や船技術が未熟で遭難があとを絶たず宝亀9年(778年)には遣唐使船が出水に漂着しています。太宰府の役人平季基は、島津荘を整備して摂関家の藤原頼道に寄進しました。島津荘は拡大して出水の地域も島津荘に組み込まれました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡して鎌倉幕府が成立すると、惟宗忠久が島津荘下司職となり、建久8年(1197年)には薩摩国と大隅国の守護職に任命されて島津氏を名乗りました。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げると、島津貞久は足利尊氏の誘いを受けて討幕に貢献しました。後醍醐天皇による建武の新政が崩壊して足利尊氏が擁立した光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれると、島津貞久は北朝方に属しました。
南北朝の動乱
和泉荘の惣地頭である島津忠氏は和泉氏を称して島津貞久に従いましたが、足利尊氏と弟の足利直義が対立した観応の擾乱で、足利直義の養子である足利直冬に属して豊後方面に移りました。在地領主の伴姓和泉氏は南朝に属して尾崎城や木牟礼城を舞台に島津氏と争いました。島津貞久は正平18年/貞治2年(1363年)に薩摩国守護職(総州家)を島津師久に譲り、島津氏久に大隅国守護職(奥州家)を与えました。両家は協力して南北朝時代を乗り切りますが、応永2年(1395年)に今川了俊が九州探題を解任されて外敵がいなくなると対立するようになりました。
木牟礼城跡
島津忠久に派遣された本田貞親は、建久7年(1196年)木牟礼城を築城して守護所として領地の運営を行い、南北朝の争乱が終わると廃城となりました。
室町時代、安土桃山時代
応永16年(1409年)に幕府は奥州家の島津元久を薩摩と大隅の守護職としました。 奥州家の島津久豊は、応永23年(1416年)に総州家の島津久世を自害に追い込みましたが、久世の子である島津久林が川辺城で挙兵しました。この戦いで豊後から召し抱えられた島津和泉家の島津直久、忠次兄弟が戦死して島津和泉家は断絶しています。島津久林は応永27年(1420年)に木牟礼城に入りましたが、応永29年(1422年)に島津久豊、忠国親子に攻められ総州家は滅びました。
薩州島津家
享徳2年(1453年)に島津忠国の弟島津用久が水府ヶ城を築いて薩州家を興しました。初代島津用久は各地の国一揆を鎮圧し、2代島津国久は応仁の乱の戦火を避けて薩摩に来訪していた桂庵玄樹に師事し、出水で聚分韻略を出版して学問の普及にあたりました。5代島津実久は、薩摩国守護の島津勝久から国政を任されていましたが、守護職が島津忠良の子島津貴久に譲られると実久はこれに反発して争いとなりました。島津勝久は実久の協力により守護職に復帰しますが、島津実久が天文8年(1539年)に島津忠良、貴久親子に敗北したことで島津貴久が守護職となりました。6代島津義虎は貴久、義久親子の領内の統一や九州制覇に従い貢献し、7代島津忠辰も義久に従いました。
豊臣秀吉の九州征伐
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐では、島津忠辰は無条件で出水の諸城を開城し出水領を安堵されました。しかし、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵で命令に背いたという理由で文禄2年(1593年)に薩州家は断絶しました。薩州家の領地は秀吉の直轄領となり一部は対馬宗氏に与えられましたが、慶長の役の島津氏の活躍により慶長4年(1599年)に島津氏に返還されました。島津忠恒は出水地頭に本田正親を任命して領地の復興に当たらせました。
出水城(亀ヶ城)
島津氏9代島津忠国の弟島津用久が城主を務め、これにより薩州島津家の本拠となりました。
御仮屋門
島津義弘が出水に住むつもりで帖佐の屋敷から移設した門で、ここには藩主が地方巡狩の宿泊所として御仮屋が置かれました。
江戸時代
初代藩主島津忠恒は、藩内を収めるために110余りの外城に分けて外城衆中と呼ばれる武士たちを配置して地方行政と防衛の任にあたらせました。また、農民支配のために数家族の農家からなる門に耕地を割り当て年貢を徴収しました。出水では農業政策として大規模な水田開発が行われ、江戸時代初期から幕末にかけて7回もの干拓工事が行われました。江内村や荘村の海岸が遠浅なことに気付いた島津斉彬は、出水の海岸の干拓を命じて島津樋門を整備して慶応2年(1866年)に庄潟新地が完成しました。
出水麓武家屋敷群
麓と呼ばれる地域に藩の役所である地頭仮屋が置かれ、外城衆中と呼ばれる郷士が居住しました。
出水筋境橋
鹿児島城から熊本城を結ぶ出水筋があり、当時は防衛のために川に橋は架けられていませんが、西南戦争後に境橋が架橋されました。
野間関
薩摩藩は肥後との国境に位置する出水で厳しい取り締まりを行い、幕末の尊王思想家高山彦九郎は「薩摩びといかにやいかに刈萱の関も鈍さぬ御代と知らずや」と詠んでいます。
五万石溝跡
薩摩藩4代藩主島津吉貴は享保19年(1734年)に隧道23か所、底水道2か所が設けられた全長約20キロにも及ぶ用水路を開削しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)に発足した明治政府は、近代化を進めて武士の世を終わらせました。不満を抱えた士族は明治10年(1876年)に西郷隆盛を擁して反乱を起こし、出水の士族も西郷軍として出兵して矢筈岳や麓において大規模な戦いが繰り広げられました。
太平洋戦争による被害
日中戦争の拡大に伴う航空要員の大量養成を目的として海軍出水航空基地の建造が進められると、昭和18年(1943年)に練習航空隊の出水海軍航空隊が発足しました。戦局が悪化すると出水航空基地は練習隊から戦闘部隊の基地として使用されるようになり、昭和20年(1945年)から出水基地への空襲が始まりました。空襲により飛行場施設や兵舎は壊滅的な被害を受け、市街地も戦禍に見舞われました。