垂水市
垂水市は、大隅半島の北西部に位置する鹿児島市と大隅半島を結ぶ海上陸上の要所です。一説には垂水城の崖下に清水が垂れて溜水できていたことが地名の由来と言われます。高隈山系を水源として湧き出る温泉水は、豊富な天然ミネラルを含む健康飲料水として親しまれています。
概要
- 面積
- 162.12km2
- 人口
- 13,289人(2022年2月1日)
- 市の木
- マツ
- 市の花
- ツツジ
- 地図
歴史
垂水市では縄文時代から人の営みが確認されています。中世になると地頭が争うようになり伊地知氏が垂水を平定しますが、やがて島津氏に降伏して領地は地頭で分割統治されました。安土桃山時代末期に島津以久が垂水領主となると、地頭は廃止されて垂水島津氏が幕末まで統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
垂水市の人の営みは、重田遺跡で縄文時代前期後半の曽畑式土器が発見されたことに始まります。縄文時代後期から晩期の柊原貝塚からは土器や石器のほか軽石でつくられた岩偶などの製品が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
迫田遺跡では成川式土器が発掘され、宮下遺跡からは水田跡と考えられる遺構が検出されています。後ヶ迫遺跡や宮ノ前遺跡では成川式土器のほか12世紀の青磁器などが発見されています。
奈良時代、平安時代
保安元年(1120年)に宇佐八幡宮から下向した藤原上総介舜清が垂水城を築いて最初の城主になりました。垂水城の崖下からは清水が湧き出し、岩層から滴る水の様子から垂水と呼ばれるようになりました。寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、平家の落人たちは九州各地に逃れて中俣の浦谷集落にも落人の墓が残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府は守護職に島津氏を置いて、その下に肥後氏と石井氏を地頭に任命しました。南北朝時代に肥後氏は南朝に属したため島津氏と戦いました。応永19年(1412年)に伊地知氏が下之城(本城)の地頭となり、池袋氏が牛根の地頭になりました。伊地知季豊が築城した田上城は、源頼朝の重臣梶原景時が頼朝死後に薩摩に逃れて田上城を居城としました。
室町時代、安土桃山時代
大永2年(1522年)に肥後氏、大永6年(1526年)に石井氏が没落して、梶原氏は伊地知氏と姻戚関係を結んで勢力維持を図りましたが、天文13年(1544年)に伊地知重武が田上城を奪い垂水を平定しました。その際に月海寺を建立して宝塔を立てたと言われます。
島津氏の統治
伊地知重興は高山の肝付氏と根占の禰寝氏と連合して島津貴久に反旗を翻しますが、激戦の末に伊地知氏は天正2年(1574年)に島津氏に降伏しました。領地は鎌田氏、川田氏、敷根氏に分割されましたが、島津以久が慶長5年(1599年)に種子島から垂水へ移り垂水領主となり、地頭は廃止されて田上城は廃城となりました。
江戸時代
垂水城が手狭になると垂水島津家4代島津久信は慶長16年(1611年)に居城を林之城に移して垂水城を廃城としました。垂水島津家10代島津貴澄は、安永5年(1776年)に学問所文行館を創設しました。安永2年(1773年)に創立された藩校造士館に次いで、郷校としては藩内で最初に創設されました。
旧林之城長屋門
林之城には侍詰所(下級武士の詰所)や兵具蔵としても使われたお長屋と呼ばれる細長い形状の多聞櫓と呼ばれる建物が建てられました。
垂水島津家墓所
垂水島津家は初代忠将から16代貴暢まで約260年続きました。菩提寺の曹洞宗心翁寺には垂水島津氏一族の墓碑群が並びます。
明治時代、大正時代、昭和時代
垂水市に生まれた瀬戸口藤吉は、明治15年(1882年)に横須賀の海軍軍楽隊に入隊して軍艦の歌を作曲し、明治32年(1900年)に行進曲に編曲した軍艦行進曲(軍艦マーチ)を観艦式で演奏しました。瀬戸口藤吉は行進曲の父と言われています。
太平洋戦争
昭和19年(1944年)に第六垂水丸が転覆して大隅各地から戦地へ出征する兵士と面会する人たち537名が犠牲となる日本海難事故史上2番目の規模の事故となりました。昭和20年(1945年)には戦火のため市街地の中心部などのほとんどが消失しました。