薩摩川内市
薩摩川内市は東シナ海に面して中心部を九州三大河川の川内川が流れています。古くから薩摩国府や薩摩国分寺などが置かれて水陸交通の要として栄え、北薩地域の政治や経済の中心地となりました。山側にはラムサール条約に登録されている火山湖・藺牟田池があります。
概要
- 面積
- 148.84km2
- 人口
- 38,418人(2021年11月1日)
- 市の木
- ツゲ、ギョボク
- 市の花
- ハイビスカス、ナノハナ
- 市の鳥
- メジロ
- 市の魚
- カツオ
- 市の蝶
- ツマベニチョウ
- 地図
歴史
薩摩川内市は古くから人の営みがあり、薩摩国府や国分寺、薩摩一之宮の新田神社が創建されました。鎌倉時代には渋谷一族が支配しましたが、戦国時代に島津氏が統治するようになりました。豊臣秀吉による九州の役では寡勢で応戦しましたが、勝ち目が無いため泰平寺で和議が結ばれました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
薩摩川内市には旧石器時代から人の営みがありました。堀之内遺跡では落穴1基と黒曜石の破片が発見されました。成岡遺跡や西ノ平遺跡から出土した土器は島原半島で発見された石器と類似しているため、密接な交流がありました。縄文時代の実態は不明な点が多いですが、弥生時代の水田跡などが検出されています。
古墳時代、飛鳥時代
大宝元年(701年)に大宝律令が制定されると、翌年の大宝2年(702年)には南九州の律令政治の拠点として薩摩国府が設置されました。薩摩国府は平安時代後期までこの地で機能していたと考えられています。和銅元年(708年)に女帝元明天皇の勅命により泰平寺が建立され、神亀2年(725年)には新田神社が建立されました。天平13年(741年)には聖武天皇の国分寺建立の詔により、薩摩国府の近くに薩摩国分寺が建立されました。
天辰寺前古墳
5世紀頃に川内川左岸の丘陵につくられた直径約28メートル、高さ3メートルの円墳で、石室内から貝製腕輪を装着した女性の人骨片と鉄製刀子や銅鏡が発見されました。
横岡古墳群
4~7世紀の墓地遺跡で8基の地下式石積石室と2基の土壙墓が発見され、蛇行鉄剣、銀環、鉄鏃、須恵器などの遺物が発見されました。
新田神社
高千穂峰に天孫降臨した瓊瓊杵尊を祀るため、神亀2年(725年)に創建された薩摩国一之宮です。
薩摩国分寺跡
奈良時代末期(8世紀末)から平安時代初期(9世紀初)に創建し、他の国分寺より規模は小さい川原寺式の寺院でした。
鶴峰窯跡
国分寺の近くには創建時の瓦を焼いたトンネル状の登り窯2基があり、2号窯からは軒丸瓦・軒平瓦・鬼瓦などのほか 8 世紀前半の須恵器窯が発見されました。
奈良時代、平安時代
天平宝字8年(764年)に万葉集の歌人として名高い大伴家持が薩摩国府の国司に任命されました。太宰府に流された菅原道真は大宰府で逝去しますが、薩摩川内市東郷町で密かに余生を過ごしたとの伝説があります。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代初期に千葉氏が領有していた薩摩川内市は、相模国で活躍した渋谷氏が領有するようになりました。宝治2年(1248年)に関東から下った渋谷氏は、5人兄弟を東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城に移住させて、それらの姓を名乗りました。同じく手柄を立てた惟宗忠久は薩摩国、大隅国、日向国の島津荘を治める権利を得て島津忠久と名乗りました。こうして渋谷一族と島津氏は抗争を重ねることになります。
甑島の統治
小川太郎季能は承久3年(1221年)の承久の乱の功で甑島領主地頭として甑島と熊本県益城郡の一部を与えられました。その子小川太郎季直が甑島の旧勢力を制圧して亀城を築き島主として甑島を支配しました。
清色城跡
12世紀に入来院頼宗又は渋谷定心が築城したとされ、在地豪族として活躍した入来院氏が居城としました。
川内高城温泉
鎌倉時代には開湯した温泉で、旧藩政時代から湯治や保養温泉として利用されるようになり西郷隆盛も訪れました。
室町時代、安土桃山時代
渋谷一族の入来院氏は勇猛で、一時は姶良まで勢力を伸ばしましたが、戦国時代末期に島津氏が台頭してくると東郷氏と入来院氏は永禄13年(1570年)に領土を島津氏に献上して島津氏が統治しました。
豊臣秀吉の九州征伐
島津氏は九州をほぼ制圧しますが、豊臣秀吉が九州の役で薩摩川内市に侵攻して泰平寺に本陣を置きました。島津家当主島津義久は泰平寺住職の宥印法印の勧めで出家して和議を行い、川内平佐には文禄4年(1595年)に北郷三久が宮崎都城から移り住み江戸末期まで統治しました。
髙城氏石塔群
高城渋谷氏が衰退したあと東郷渋谷氏が高城に進出すると、高城氏の菩提寺である信興寺に石塔が建てられました。
入来院氏墓地
1460年頃に修験者円覚により大源寺が建立され、入来院12代重朝が父重聡の菩提寺として定祐寺と改めました。
平佐城跡
天正15年(1587年)に平佐城主桂忠昉は300人を率いて豊臣軍8500人と交戦しました。平佐城の跡地は平佐西小学校になります。
泰平寺
島津家当主島津義久は泰平寺住職の宥印法印の勧めで出家して龍伯と改め、泰平寺で和議が行われました。
江戸時代
江戸時代に川内川を利用した物流が最も発展して、藩内最大級の港である久見崎には舟手が置かれて管理されました。慶長7年(1602年)には船長レオン喜佐衛門の案内でマニラのドミニコ会神父フランシスコ・デ・モラレスなど5人が来航して、慶長11年(1606年)には日本初の教会の一つ京泊天主堂を建てました。キリスト教弾圧が始まると北郷家臣レオン七右衛門が慶長13年(1608年)に殉教し、甑島の釣掛崎でもキリスト教信者が処刑されたと言われています。弘化5年(1848年)から川内川支流の八間川の治水工事が行われ、この工事の一環として嘉永2年(1849年)に熊本出身の石工岩永三五郎が手掛けた5つの石橋うち江之口橋が現存しています。
隈之城麓
島津氏の直轄領で地頭仮屋の周囲に麓と呼ばれる武家屋敷群がつくられました。地頭仮屋は慶長年間に川内川に接する向田に移りました。
明治時代、大正時代、昭和時代
第二次世界大戦の頃に川内川に鉄道橋などのインフラが整備されてましたが、物資輸送を阻止するため米軍の空襲の標的となり、古くからの町並みが失われて市民や住宅など多くの犠牲を出しました。
世界一郷水車
平成3年(1991年)には建造当初は日本一の大きさである水車が造られました。
藺牟田池
3分の1が低層湿原を形成する火山湖であり、平成17年(2005年)に水鳥の生息地としてラムサール条約に登録されました。