日置市

日置市は薩摩半島の中西部に位置し、西部は東シナ海に面しています。東側は薩摩半島の脊梁部をなす山地が連なり西部は海岸平野が形成され、日本一の長さを誇る日本三大砂丘の吹上浜があります。古くから温泉地として人びとの往来があり、近年は鹿児島市のベッドタウンとしての役割も担います。
概要
- 面積
- 253.01km2
- 人口
- 46,685人(2022年2月1日)
- 市の木
- クロマツ
- 市の花
- うめ
- 地図
歴史
平安時代に日本最大の島津荘が成立して、鎌倉時代に島津氏が下向して戦乱となりました。伊作城を拠点とした相州家島津忠良は、薩摩守護職をかけて薩州家島津実久と争い、島津氏飛躍の足掛かりとしました。江戸時代には南京皿山窯の開窯や樟脳の製造で産業の振興が図られました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
吉利古城遺跡や前山遺跡などで旧石器時代の遺物が確認されました。縄文時代には辻堂原遺跡の集落跡や白寿・入来遺跡の支石墓がつくられました。伊作川下流の沖積平野の台地には弥生時代から古墳時代の入来遺跡が形成しました。

黒川洞穴
川の浸食で形成した谷の斜面にある洞穴で、縄文時代から弥生時代にかけて人が生活し、縄文時代晩期の黒川式土器が出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
吹上中学校に存在した辻堂原遺跡から3世紀後半から6世紀後半の土器が出土し、古墳時代を中心とする溝や住居跡などの集落跡が見つかりました。
奈良時代、平安時代
平安時代に平季基が開墾して近衛家に寄進した日本最大の島津荘が生まれました。薩摩平氏の指導者の阿多忠景は中国との交易により巨額の財を築きました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代に日置南郷(永吉)の郡司である桑波田覚弁が南郷城を拠点として領有し、南北朝時代の弘安4年(1281年)に島津本家4代・島津忠宗の弟・島津久長が伊作荘地頭となり、伊作城(亀丸城)を築城して統治を始めました。

常楽院跡
建久7年(1196年)に島津氏初代忠久に招かれて京都の天台宗常楽院の住職・宝山検校が建立したと伝えられ、歴代の住職は琵琶を吟弾して仏法を広めました。

伊作城(亀丸城)跡
南北朝期にシラス台地に築かれた南九州でも屈指の規模を誇る山城です。島津中興の祖と呼ばれる島津忠良が本拠として島津宗家を建て直しました。
室町時代、安土桃山時代
島津宗家を巡り相州家島津忠良と薩州家島津実久が争うようになると、天文2年(1533年)に島津忠良は薩州家に与する桑波田栄景の南郷城を攻め取りました。桑波田栄景と島津実久は南郷城を奪回するため兵を進めたが、島津忠良・貴久父子に敗北しました。天正5年(1536年)には島津忠良・貴久父子は一宇治城を奪還しました。天文8年(1539年)には島津貴久が市来鶴丸城を攻め、島津実久の弟・島津忠辰らを討ち取りました。

一宇治城
鎌倉時代に伊集院氏が築いた城で、天正14年(1545年)に島津忠良・貴久父子が鹿児島を制圧するための拠点としました。

市来鶴丸城
市来院の郡司である市来家房が築いた城で、のちに島津氏の城となり、天文19年(1550年)に宣教師ザビエルが訪れて布教しました。

海蔵院跡
応永5年(1398年)に創建した伊作郷最大の寺院で、島津中興の祖である島津忠良は住職頼増の教育を受けました。

雪窓院跡
島津貴久の妻・雪窓院の菩提寺で、島津義久は豊臣秀吉の九州征伐で降伏するためにこの船で剃髪しました。

徳重神社
島津義弘の菩提寺である妙円寺は、明治2年(1869年)に廃仏毀釈で廃寺とされ、島津義弘を合祀して徳重神社となりました。
江戸時代
藩の直轄地となり、伊作城の麓には郷士が配されました。鹿児島から伊集院まで島津義弘を参拝する妙円寺詣りが定着しました。

堂平窯跡
文禄・慶長の役で島津義弘が連れてきた朝鮮人陶工が開いた17世紀頃の窯跡で、窯の構造は朝鮮系単室傾斜窯とされています。

美山薩摩焼窯
美山にある5カ所の窯跡のひとつ御定式窯は、寛延の初め(1748年頃)に御物窯として開かれて明和元年(1764年)に御定式窯と改名されました。

南京皿山窯跡
弘化3年(1846年)に調所広郷や村田堂元らが開窯した染付白磁専用の窯で、美山にある古窯のなかで最も規模が大きい窯跡です。

調所広郷・村田堂元の招墓
調所広郷は南京皿山窯の開窯や樟脳の製造に着手して産業の振興を図りました。のちに密貿易の嫌疑で自刃すると、美山の人びとは招魂墓を建立しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
平成17年(2005年)に日置市となりました。