歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

曽於市

曽於市の弥五郎どん伝説の里

曽於市は大隅半島の北部に位置します。北部は都城盆地の一部を成し、南部は菱田川流域に広がる地域です。シラスやボラなどの火山灰土壌で形成される丘陵地帯が広がり、全体的に起伏が多い台地は畜産のまちとして牛肉や豚肉の生産は全国トップクラスです。

概要

面積
390.11km2
人口
32,328人(2022年2月1日)
市の木
さくら
市の花
つつじ
地図

歴史

大和王権に反旗を翻した隼人が養老4年(720年)に鎮圧されると、万寿3年(1026年)に太宰大監の平季基が日本一の大荘園である島津荘を開荘しました。鎌倉時代に島津荘が島津氏に与えられますが、平氏の流れをくむ豪族の肝付氏とこの地を巡り争うようになりました。火山灰土壌のシラスで形成される丘陵地帯のため作物を育てるには不向きでしたが、畜産業が発達して全国トップクラスの畜産が盛んな地域となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

宮之迫遺跡から縄文時代中期から後期にかけての大量の土器が出土しました。縄文時代晩期には中岳洞穴で人が生活していた跡があり、中岳式土器、獣骨が出土しています。縄文晩期の住居跡である入佐住居跡からは土器片や木炭が検出されています。

古墳時代、飛鳥時代

日本に仏教が伝来して、天智天皇4年(700年)に僧侶である道昭が火葬の風習を伝えました。末吉町にある荒神免古墳は古い時代の墓陵で、出土した須恵器から焼けた人骨が発掘されました。

奈良時代、平安時代

奈良時代になり大和王権の影響を受けて和銅元年(708年)に大隅正八幡(鹿児島神宮)の別宮として投谷八幡宮が創建し、和銅3年(710年)に鴨頼長が日光神社を創建しました。この地に住む隼人は大和王権に反旗を翻しましたが、養老4年(720年)に鎮圧されました。太宰大監の平季基は奈良宗と共に島津荘を開荘して万寿3年(1026年)に関白藤原頼通に寄進しました。島津荘は薩摩・大隅・日向にわたる日本一の大荘園へと発展し、南之郷橋野には平季基の墓が残されています。

曽於市の弥五郎どん

弥五郎どん

この地に残る弥五郎どんは隼人族の首領とも、大和王権側の竹内宿禰とも言われています。

曽於市の笠野原土持堀の岩川八幡神社

岩川八幡神社

万寿2年(1025年)に京都の石清水八幡宮より勧請して創建しました。

鎌倉時代、南北朝時代

建久7年(1196年)に島津忠久に従う稲村重家が築城した末吉城は、永享4年(1432年)頃には島津氏9代島津忠国が居館として都城や末吉等を管治しました。この頃から花房製鉄所跡では志布志の浜の砂鉄で製鉄が行われ、明治初期まで続きました。文明18年(1486年)には岩屋観音が開山し、江戸時代元禄期の行仙による刻字などが岩壁に残されました。

室町時代、安土桃山時代

曽於市は肝付氏と北郷氏の争いの舞台となりました。永禄元年(1558年)には高山城主肝付兼続と都城城主北郷時久が恒吉郷宮ヶ原で戦いとなり、北郷軍は大敗して時久の叔父北郷久厦、北郷久親、石坂久武、末吉地頭平田宗仍などが討死しました。元亀4年(1573年)には国合原で合戦となり、肝付軍は志布志地頭の肝付竹友が血が谷で討死しするなど大敗して肝付竹友の墓が建てられました。

庄内の乱

天文14年(1545年)に肝付兼続が落とした恒吉城は、文禄4年(1595年)に伊集院忠棟が所領としました。忠棟が島津家当主島津忠恒に斬殺されると、慶長4年(1599年)に伊集院忠真が島津氏に反旗を翻して庄内の乱となりました。伊集院方は都城を本城として十二外城を置き、月野城の若松石見守を急襲して敗死させました。伊集院宗右衛門を守将とする恒吉城は、島津忠長、樺山久高、柏原公盛の攻撃を防ぎましたが、樺山久高の説得で開城して寺山久兼が恒吉郷の初代地頭となりました。財部正信により築城された龍虎城は、伊集院忠棟の甥である伊集院甚吉が守将となり最後まで抵抗しましたが、降伏して庄内の乱は終わりました。

江戸時代

江戸時代には桂庵玄樹を祖とする薩南学派の愛甲喜春に師事された白尾桃庵は、子弟教育にあたるなど学問が盛んになり、医学や漢学など諸学問を修めた有馬厚軒は、元治元年(1864年)に末吉に郷校である知新館を創設して郷士の教育に深く携わりました。江戸時代の島津氏の支配下で禁止された一向宗は厳しく取り締まられ、徳牟礼門の直右衛門は天保12年(1841年)に捕らえられて拷問を受け牢の中で自殺する事件が起こりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)の西南戦争では、西郷軍の村田新八が都城を拠点として政府軍を迎え撃ちました。都城の防衛線である曽於市は戦場となり、岩ノ上から坂口坂や大沢津の坂を上る政府軍と戦闘になりました。曽於市には西郷軍と政府軍の墓が築かれました。第二次世界大戦の末期には芙蓉部隊が岩川飛行場から沖縄方面に出撃して多くの人が戻りませんでした。