歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

霧島市

霧島市の霧島神宮

霧島市は鹿児島県本土のほぼ中央部に位置し、南部は広大な平野と錦江湾があり、北部は霧島山が連なります。日本建国神話が伝えられており、天上界より望む霧に煙る海に浮かぶ島が霧島の名前の由来となりました。日本有数の温泉地帯で、霧島神宮温泉郷、霧島温泉郷、妙見・安楽温泉郷、日当山温泉郷の4つの温泉郷があり、坂本龍馬が日本初の新婚旅行で訪れています。

概要

面積
603.18km2
人口
123,139人(2021年11月1日)
市の木
クロガネモチ、モミジ
市の花
ミヤマキリシマ、ハナタバコ
地図

歴史

霧島市は縄文時代早期から日本最大規模の上野原遺跡などで人の営みがありました。熊襲や隼人と呼ばれる人が独自の文化を築きましたが、やがて大和政権に支配されるようになりました。戦乱の時代では豪族などが争いましたが、やがて島津氏が制圧して日本最大規模の金山が発見されました。幕末には日本有数の温泉地霧島に坂本龍馬が日本で初めて新婚旅行しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

鹿児島神宮の麓にある宮坂貝塚からは貝殻や獣骨のほか石鏃や土器の破片が発見されており、真田原遺跡からは黒曜石で作られた鏃や塞ノ神式土器などの縄文時代早期の土器や石器のほか獣を捕えるための落とし穴が見つかりました。日本最古で最大級の縄文時代早期の集落遺跡である上野原遺跡は、52基の竪穴式住居、石蒸し調理施設の集石遺構や燻製調理施設の連結土坑などが発見されました。年代測定には堆積した桜島の火山灰が指標の一つとなり、南九州の縄文文化は鬼界カルデラの噴火で壊滅するまで続きました。

霧島市の宮坂貝塚

宮坂貝塚

貝殻や獣骨のほか石鏃や土器の破片が発見されており、鹿児島県で最古の部類に入るようです。

霧島市の上野原遺跡

上野原遺跡

日本最古で最大級の縄文時代早期の集落遺跡で、52基の竪穴式住居、石蒸し調理施設の集石遺構や燻製調理施設の連結土坑などが発見されました。

日本神話の天孫降臨

溝辺には天孫降臨の瓊瓊杵尊を父に持つ彦火火出見尊の陵墓である高屋山上陵があります。高屋山上陵の東南方向にある大河内岡は彦火火出見尊が豊玉姫を見初めたところで、みそめが丘と伝えられており、溝辺の語源ともなりました。

霧島市の高千穂河原

高千穂河原

日本神話で天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊が降り立つ天孫降臨神話ゆかりの地です。瓊瓊杵尊と木花開耶姫の間に彦火火出見尊らが生まれました。

霧島市の高屋山上陵

高屋山上陵

瓊瓊杵尊の子で、山幸彦として知られる彦火火出見尊の陵墓です。彦火火出見尊の孫は初代天皇である神武天皇になります。

古墳時代、飛鳥時代

鹿児島県の古墳時代の資料は少ないですが、亀ノ甲遺跡からは土壙墓から三累環頭大刀ほか大刀が発見されました。6世紀に創建した霧島神宮は、建国神話の主人公である瓊瓊杵尊を祀ります。天照大神の孫である瓊瓊杵尊は三種の神器を譲り受け高千穂の峰に降りたと言われ、霧島神宮の社殿は高千穂峰と火常峰(御鉢)の間にある背門丘に建てられていましたが、霧島山の噴火で何度も消失したため現在の地に遷されました。

霧島市の霧島神宮

霧島神宮

6世紀頃に創建したと言われる全国でも数少ない神宮号を称します。主祭神は天孫降臨として高千穂に降り立つ瓊瓊杵尊になります。

奈良時代、平安時代

和銅元年(708年)に鹿児島神宮の前身である大隅正八幡宮が創建し、和銅6年(713年)に大隅国が建国して現在の国分に国府が設置されました。朝廷から隼人と呼ばれた人たちは朝廷の支配に抗い、養老4年(720年)に大隅国司である陽候史麻呂を殺害しました。最後の戦いとなる国分平野の戦いで隼人は制圧され、この戦いで命を落とした隼人の霊を慰めるために隼人塚が建てられたことで隼人町の地名の由来となりました。天平13年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔により大隅国分寺が建立しました。

霧島市の鹿児島神宮(大隅正八幡宮)

鹿児島神宮(大隅正八幡宮)

神代又は神武天皇の時代に創建されたと言われ、主祭神の彦穂穂出見尊は580年の生涯で農耕畜産漁猟を指導して民生安定の基礎を築いたとされます。

霧島市の隼人塚

隼人塚

養老4年(720年)に隼人の人びとが大隅国司である陽候史麻呂を殺害して隼人の乱を起こしますが、朝廷に平定されて慰霊碑が建てられました。

霧島市の大隅国分寺跡

大隅国分寺跡

天平13年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔により、大隅にも国分寺が建立されました。

鎌倉時代、南北朝時代

南九州に広がる日本最大の荘園島津荘の下司職、地頭職に任じられた惟宗忠久は島津姓を名乗り支配しました。在地豪族の税所氏は国分を中心に霧島や牧園一帯を治め、南北朝時代は北朝方として戦いました。

霧島市の溝辺城跡

溝辺城跡

元弘2年/正慶元年(1332年)頃に溝辺孫太郎が溝辺城を築城し、正平13年/延文3年(1358年)に肝付兼固が城主となりました。

霧島市の赤水の岩堂磨崖仏

赤水の岩堂磨崖仏

建武2年(1335年)に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の3体の赤水の岩堂磨崖仏が造られました。

室町時代、安土桃山時代

税所氏が島津氏に滅ぼされると、国分清水城に本田氏が入り霧島一帯を領地としました。天文3年(1534年)に肝付兼固と肝付兼演は島津勝久から加治木領を与えられ、牧園には北郷氏と樺山氏が入りますが、北郷氏と本田氏は激しく争うようになり諸勢力を巻き込んで争乱となりました。横暴を繰り返した本田薫親や横川城を中心としていた北原氏は島津氏から追い出されて島津氏の支配下に置かれましたが、豊臣秀吉の九州の役で島津氏が降伏すると加治木などは豊臣秀吉の直轄地となりました。島津義久は文禄4年(1595年)に富隈城を築城したあと、慶長9年(1604年)には国分新城(舞鶴城)を築いて晩年を過ごしました。

霧島市の富隈城跡

富隈城跡

文禄4年(1595年)に島津義久は富隈城を築城し、船頭彦兵衛尉に朱印状を与えて貿易の拠点としました。

江戸時代

寛永17年(1640年)に宮之城領主島津久通により山ヶ野金山が発見されました。山ヶ野金山は一時的に日本一の産金量を誇りましたが、薩摩藩の国力強化を警戒した幕府により採掘が停止され、明暦2年(1656年)に再び採掘が始められ、昭和28年(1953年)まで採掘が行われました。正徳6年(1716年)には平らで耕作地として良い隼人町に宮内原用水路が完成しています。慶応2年(1866年)には西郷隆盛や小松帯刀の勧めで坂本龍馬がお龍を伴い塩浸温泉を訪れました。これが日本で最初の新婚旅行と言われます。

霧島市の山ヶ野金山

山ヶ野金山

金の産出量があまりにも多いため、薩摩藩の国力強化を警戒した幕府は停止を命じるほどでした。

霧島市の宮内原用水路

宮内原用水路

郡奉行汾陽盛常は薩摩藩に願い出て5年の歳月をかけて正徳6年(1716年)に宮内原用水路を完成しました。

霧島市の塩浸温泉

塩浸温泉

慶応2年(1866年)の寺田屋事件で傷を負った坂本龍馬がお龍を伴い塩浸温泉で傷を癒しました。これが日本で最初の新婚旅行と言われます。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)に起きた西南戦争では霧島市でも政府軍と西郷軍の戦闘が起きました。西郷軍の辺見十郎太が牧園を拠点として陣地を築いて守りを固め、横川では延岡から九州山地を経て城山に向かう西郷隆盛を守るため、20時間にも及ぶ激戦となりました。やがて西南戦争が終結すると霧島市も近代化へと進んでいきます。明治34年(1901年)に鹿児島と隼人に開通した鉄道は、明治41年(1908年)に人吉駅まで繋がり全線開通して米や木材などの運搬に貢献しました。

霧島市の嘉例川駅

嘉例川駅

明治36年(1903年)に営業を始め、駅弁で有名なだけでなく鹿児島県最古の駅舎のひとつとして南九州近代化産業遺産群に登録されました。

霧島市の霧島温泉郷

霧島温泉郷

大正3年(1914年)に牧園駅から霧島温泉まで道路が整備されたことで霧島温泉郷は多くの湯治客を集めるようになりました。