歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

南さつま市

鹿児島県南さつま市の火之神公園

南さつま市は鹿児島県薩摩半島の南西端に位置し、東シナ海に面する海岸線はリアス式海岸や吹上浜など変化に富んでいます。かぼちゃや柑橘類などの山の幸、カンパチやしらすなどの海の幸が豊富です。

概要

面積
283.59km2
人口
32,244人(2022年2月1日)
市の木
いぬまき
市の花
つわぶき
地図

歴史

奈良時代に遣唐使船で中国から鑑真が上陸を果たしました。坊津は海外交易の拠点として栄え、石畳などの街並みが残されています。江戸時代に民間密貿易の取り締まりが強化され、漁港へと変化していきました。太平洋戦争では特攻基地が置かれ、坊ノ岬沖では戦艦大和が襲撃を受けて沈没しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の春ノ山遺跡からキャンプ跡が見つかりました。縄文草創期の志風頭遺跡からほぼ完全な形の最古級の隆帯文土器が出土し、縄文時代晩期の上加世田遺跡から祭祀の跡が見つかります。弥生時代には中期の下小路遺跡から甕棺墓、後期の松木薗遺跡から環濠集落が見られます。

鹿児島県南さつま市の栫ノ原遺跡

栫ノ原遺跡

縄文時代草創期の土器や石器などが出土しました。国内最古の肉を燻製にする施設や石蒸し料理を調理した集石遺構が見つかりました。

鹿児島県南さつま市の阿多貝塚

阿多貝塚

地球温暖化の海面上昇で海岸線が形成し、安定した海辺の生活が営まれました。ハマグリやマガキの貝殻や轟式土器などが出土しています。

鹿児島県南さつま市の高橋貝塚

高橋貝塚

縄文時代終わりから弥生時代中期の貝塚で、稲作で使用されたと考えられる石包丁や石鍬などが出土しました。

鹿児島県南さつま市の笠狭宮阯

笠狭宮阯

天照大神の孫である瓊瓊杵尊が高千穂に降臨して居を構えた伝承があり、竹屋ケ尾で妻の木花開耶姫が彦火火出見尊を生んだとされます。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代中期の奥山古墳(六堂会古墳)は、ガラス玉・鉄剣・土師器などが出土した箱式石棺があります。敏達天皇12年(583年)に日羅による一乗院が創建された伝説があり、これが坊津の名称の由来と伝えられます。

鹿児島県南さつま市の一乗院跡

一乗院跡

長承2年(1133年)に鳥羽上皇の勅願寺となり島津氏の庇護の下繁栄しましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で廃寺となりました。

奈良時代、平安時代

天平勝宝5年(753年)に唐僧鑑真が遣唐使船で秋妻屋浦(秋目)に漂着し、日本に正しい仏教を伝えました。薩摩平氏の阿多四郎忠景は中国との交易により巨額の財を築き、保延4年(1138年)に私領を金峰山観音寺に寄進しました。治承元年(1177年)に薩摩平氏の別府五郎忠明が別府城(加世田城)を築きました。

鹿児島県南さつま市の鑑真像

鑑真

揚州大明寺の鑑真は5度も日本への渡海に失敗して失明しましたが、坊津に漂着して日本に戒律を伝え唐招提寺を開きました。

鹿児島県南さつま市の別府城跡

別府城跡

別府氏が300年にわたり城主を務めましたが、応永27年(1420年)に島津久豊に降り薩州家島津氏が領有するようになりました。

鎌倉時代、南北朝時代

建久5年(1194年)に鮫島宗家が阿多郡惣地頭となり、寛元3年(1245年)に二階堂育久が地頭となりました。

室町時代、安土桃山時代

伊作島津家は田布施の二階堂氏や阿多の鮫島氏を屈服させ、奥州島津家豊久は加世田の別府氏を攻略して薩州家島津国久が領主となりました。大永7年(1527年)に島津貴久が島津本宗家を継ぐと相州家と薩州家が対立し、天文8年(1539年)に島津忠良が薩州家の加世田別府城を攻略しました。天正20年(1592年)に鮫島宗政が海外貿易を始めました。

鹿児島県南さつま市の常珠寺跡

常珠寺跡

相州家島津氏初代の島津友久の菩提寺で島津忠良が建立した薬師堂がありましたが、明治初めの廃仏毀釈により廃寺となりました。

鹿児島県南さつま市の六地蔵塔

六地蔵塔

島津忠良が天文7年(1538年)の別府城の戦いで戦死した人びとの供養のために天文9年(1540年)に建立されました。

鹿児島県南さつま市の島津忠良(日新斎)の墓

島津忠良(日新斎)の墓

嫡男島津貴久と薩摩・大隅・日向三州を統一する基礎を築いて島津家中興の祖と呼ばれました。孫にあたる島津義久らがほぼ九州を制圧しました。

鹿児島県南さつま市の坊津

坊津

のちに関白となる近衛信輔は天正22年(1594年)に後陽成天皇の怒りを買い坊津に流され、坊津八景などを残しました。

江戸時代

慶長20年(1615年)に藩直轄地となり、加世田の麓には地頭仮屋が設けられました。元和7年(1621年)に上木屋の田中七右衛門が製鉄用水車の水神を建立しました。享保年間(1716~35年)に薩摩藩が民間密貿易の取締りを強める享保の唐物崩れにより坊津は貿易港から漁港へと変化し、阿多御新田開発や益山用水などが行われましたが、安政5年(1858年)に厳しい年貢の取立てと宗教弾圧により小松原(万世校区)で加世田一揆が起こりました。

鹿児島県南さつま市の久志砲台跡

久志砲台跡

久志集落には薩摩藩の御仮屋が置かれ、久志湾への外国船侵入を防ぐために砲台が設置されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

昭和20年(1945年)に万世飛行場から特攻隊が沖縄へと出撃するようになり加世田空襲で多くの被害が出ました。戦艦大和は沖縄に向かう途中の坊ノ岬沖海戦で沈没しました。昭和29年(1954年)に加世田市が誕生し、平成17年(2005年)に南さつま市となりました。

鹿児島県南さつま市の新川築港碑

新川築港碑

明治時代に丁子屋、森田商店、小田店、丸野店の海運業者があり、南薩で有数の商業地となりました。

鹿児島県南さつま市の万世特攻平和祈念館

万世特攻平和祈念館

万世飛行場は陸軍最後の特攻基地で、200名近い少年が沖縄に飛び立ちました。万世飛行場の跡地には平和祈念館が建てられました。