志布志市

志布志市は鹿児島県東部の志布志湾奥中央部に位置する重要港湾です。古くから海上交通の拠点として栄え、南九州の国内外の物流拠点として栄えました。志布志港は九州で唯一の国際バルク戦略基地(穀物)に指定され、志布志港の背後にある国内有数の農畜産地域に飼料が供給されています。
概要
- 面積
- 290.28km2
- 人口
- 28,726人(2022年2月1日)
- 市の木
- ビロウ
- 市の花
- ヒマワリ
- 地図
歴史
古来より南九州の海運の拠点として知られます。志布志の地名は、この地に住む女性とその侍女が天智天皇に布を献上したところ、天皇が感激して「上からも下からも志として布を献じたことは誠に志布志である」と言われたことから名付けられました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
片野洞穴から骨角器として牙製釣針をはじめ骨針・骨鏃・骨製簪が出土しています。京ノ峯遺跡からは弥生時代中期の円形周溝墓が20基見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
小牧台地にある前方後円墳である小牧古墳群などがあります。この地に住む女性とその侍女が天智天皇に布を献上して志布志と呼ばれるようになりました。

原田古墳
5世紀前半から中頃の鹿児島県内最大級の円墳で、大規模な盗掘を受けましたが須恵器や土師器、ガラス玉などが出土しました。
奈良時代、平安時代
聖武天皇の神亀年間に鎮御国家のために湧水と岩壁が特徴的な場所に宝満寺跡が創建されたと伝えられます。

宝満寺跡
神亀年間(724~729年)に聖武天皇が皇国鎮護のために各地に建立した勅願寺のひとつで、正和5年(1316年)に信仙上人英基和尚が再興しました。
鎌倉時代、南北朝時代
伊佐平氏の安楽平九郎為成が救仁院地頭弁済使として安楽城を築城し、文治5年(1189年)に救仁院平八成直に交代して蓬原城跡を居城としました。建武3年(1336年)に重久篤兼が肝付兼重配下の志布志城を攻め、正平3年(1348年)に楡井頼仲が志布志城(松尾城)に入りました。延文2年(1357年)に志布志城が攻略されて新納実久が入りますが、足利尊氏が大隅を平定するために送り込んだ畠山直顕が侵攻したため、新納氏は島津氏久に救援を依頼して島津氏久が志布志城に入りました。

志布志城跡
南北朝時代から戦国時代末期まで存続したシラス台地の地質を活かした山城で、松尾城と内城、高城と新城から構成されます。
室町時代、安土桃山時代
天文5年(1536年)に豊州島津氏の島津忠朝が志布志を攻めて新納忠茂は敗れて志布志を去りました。永禄5年(1562年)には肝付兼続配下の肝付竹友が志布志城を攻略しますが、天正4年(1576年)に肝付氏が日向国伊東氏に敗れて衰退すると、翌年に島津氏配下の鎌田政近が地頭となりました。

楢ヶ原供養塔
永禄2年(1559年)に松山城主平山越後守忠智が肝付兼続と字尾峠で戦い戦死したといわれ、供養のため建てられたものと伝わります。

肝付兼続公の墓碑
肝付家16代当主で豊州島津氏を破り志布志を隠居所と定めて大隅の経営に当たりました。墓所は天明2年(1782年)に再興されたものです。
江戸時代
大坂方面への藩米の輸送を中心とした国内貿易の拠点として栄えました。海上交易が盛んになり志布志千軒の町と呼ばれるようになりました。

愛甲喜春の墓
桂庵玄樹より受け継がれた薩摩宋学の学統を修め、万治2年(1659年)に島津光久の侍講となり藩の政治、弟子の教育に努めました。

津口番所跡
前川河口に船着場があり番所で廻船・貿易船の積荷を取り締まりました。現在は石垣のみが残されています。

志布志麓庭園(平山氏庭園)
大規模な岩盤を数段に削り取り造営された枯山水庭園で、荒々しさと立体感がある構造の庭園です。

志布志麓庭園(福山氏庭園)
文政10年(1827)に建造された藩政時代の麓における最上級家臣の武家屋敷で、建物と枯山水庭園がほぼ完全な形で残されています。

志布志麓庭園(天水氏庭園)
変化に富んだ地形を生かしつつ琉球文化を取り入れて海石を使用して築造された枯山水の庭園です。

志布志麓庭園(鳥濱氏庭園)
シラス台地の基盤である溶結凝灰岩の自然の傾斜を利用した枯山水庭園です。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和20年(1945年)に太平洋戦争の戦局が悪化すると、志布志湾岸上陸作戦(オリンピック作戦)の阻止を目的とする守備拠点を各地に構築しました。平成18年(2006年)に志布志市が誕生しました。