南九州市
南九州市は薩摩半島南部にある東シナ海に面する都市です。知覧町は茶業と畜産を中心とした農業が行われ、川辺町は清水磨崖仏に代表される仏教の盛んな地域で、仏壇製造技術が発展して伝統工芸品として指定されています。
概要
- 面積
- 357.91km2
- 人口
- 32,416人(2021年11月1日)
- 市の木
- 桜、茶
- 市の花
- ヒマワリ
- 地図
歴史
南九州市は鬼界カルデラの大噴火によりほぼ全滅しましたが、再び隼人と呼ばれる人たちが生活を行うようになりました。隼人は朝廷に対して反抗しますが、やがて律令制度を受け入れていきます。島津氏が守護職になると阿多氏や頴娃氏が統治して麓の武士文化が生まれました。第二次世界大戦では知覧の航空基地が特攻基地として多くの若者が特攻機で出撃しています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
南九州市は旧石器時代から人の営みが確認されています。宮ノ上遺跡からは3万5千点を超える石器などが出土しました。縄文時代には鬼界カルデラの大噴火による大規模火砕流で、集落は壊滅的な打撃を受けました。
豊玉姫陵
初代神武天皇の祖母である豊玉姫は、山幸彦と結ばれて子を授かりましたが、山幸彦が約束を破り産屋を覗いたため海に帰ったとされます。
古墳時代、飛鳥時代
南九州市では古墳や地下式横穴墓などは検出されていません。大堀迫遺跡や城ケ崎遺跡などで古墳時代の成川式土器を伴う竪穴住居跡などの遺構が検出されています。持統6年(692年)に大隅と阿多に僧侶が派遣され仏教が教化されました。文武天皇2年(698年)に朝廷が覓国使を派遣して令制国設置を進めましたが、覓国使が襲われる事件が起きました。養老4年(720年)には大隅国の隼人の反乱が起きて、薩摩国や日向国にも広がりました。
奈良時代、平安時代
延暦19年(800年)に薩摩国全域で班田制が施行されて律令体制に組み込まれていきました。定観16年(874年)と仁和元年(885年)には開聞岳が噴火して大きな被害を受けました。やがて平季基が宮崎県都城市を中心に開拓して摂関家の藤原頼通に寄進して島津荘が成立すると、これが拡大して南九州市は島津庄寄郡となりました。
伊作家の横領
平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊作良道を祖とする薩摩平氏が郡司職となりました。伊作良道の三男頴娃忠永は頴娃の領主となり、四男阿多忠景は久寿元年(1154年)頃に源為朝と縁戚関係を結び薩摩国を横領する謀反を起こしました。保元の乱で源為朝が敗れると平治元年(1159年)に勅勘を被り、阿多忠景は薩摩硫黄島に落ち延びました。
清水磨崖仏
清水川右岸の高さ20メートル、長さ400メートルの岸壁に平安時代から五輪塔や宝篋印塔、梵字、仏像など200基が彫刻されました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治元年(1185年)に源頼朝が諸国に守護、地頭職の設置の勅許(文治の勅許)が下されると、島津忠久が島津庄下司職から地頭職となり建久8年(1197年)には守護職となりました。阿多郡には駿河国御家人の鮫島宗家が地頭職となり、のちに北方は二階堂氏が入りました。
南北朝の動乱
慶永元年(1342年)に懐良親王が薩州津(山川)に入ると南薩は南朝方の拠点となりました。守護職の島津氏は北朝に与したため戦乱となり、頴娃政純が島津元久に討たれて頴娃氏は没落して島津久豊が領主となるなど、次第に島津氏が南薩を支配下に置いていきました。島津久豊は大隅国の肝付兼政に支配を任せて、肝付兼政は頴娃城を居城とする伴姓頴娃氏を称しました。
室町時代、安土桃山時代
知覧の佐多氏や頴娃の頴娃氏ら在地領主は、次第に島津氏の家臣に組み込まれていきました。知覧地域は南北朝時代から島津忠宗の三男佐多忠光が所領とし、一時的に島津庶流伊集院頼久の一族今給黎久俊や種子島久時が支配した時期もありますが、慶長15年(1610)に佐多忠充が大隅国から戻されて江戸時代末期まで統治しました。頴娃地域は天正16年(1588年)に頴娃久音の代で断絶して島津氏の直轄となりました。
知覧城
シラス地形特有の直立した崖を利用して築かれた南九州型の中世城郭で佐多氏が居城としました。
頴娃城
島津相州家を支えた伴姓頴娃氏が築城して居城としました。頴娃久虎は五層の建物を建て、ポルトガル商人がヨーロッパに初めて紹介した日本の山城となりました。
江戸時代
島津家久が鹿児島城を築いて城下町を整備しますが、武士を集住することができず領内を113の外城(郷)に分けて支配しました。川辺や頴娃には地頭が置かれ、知覧は佐多氏、川辺は新納氏の私領となりました。下城衆中(郷士)は中世以来の山城付近に集住して麓と呼ばれる武家集落を形成しました。薩摩藩はキリスト教とともに浄土真宗を禁じて厳しい弾圧や取締を行いました。門徒は仏像を岩穴などに隠して密かに信仰する隠れ念仏を行いました。
知覧武家屋敷群
1750年前後に築かれた郷士集落が麓を形成しました。麓では武士の子弟教育のため、学問所や稽古所と呼ばれる教育機関が設けられました。
知覧島津氏墓地
知覧麓を所領としていた知覧島津氏は西福寺を菩提寺としていました。西福寺跡には歴代領主のほか西福寺の僧侶の墓が残されています。
厚地松山製鉄遺跡
頴娃の矢越浜で採れた砂鉄が運ばれて鉄に精製されました。製鉄等の産業により頴娃や知覧地域では仲覚兵衛を始めとする海運商人が財を成しました。
番所鼻公園
海上交通が栄えると海の守りを固めるため異国方番所や遠見番所が置かれました。
明治時代、大正時代、昭和時代
県茶業試験場跡地に昭和16年(1941年)に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として知覧飛行場が建造されました。終戦間際には頴娃の青戸にも飛行場建設が行われましたが未完のまま終戦を迎え、掩体壕やトーチカなどが残されています。本土の最前線である薩摩半島は空襲を何度も受け、軍事施設のみならず一般の住民も多くの被害がでました。
轟製錬所跡
明治の終わりから昭和の初めにかけて操業しました。金・銀鉱石を水車の力で細かく砕き、金や銀を取り出す製錬を行いました。
知覧特攻平和会館
少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習士の操縦教育が行われましたが、昭和20年(1945年)から特攻基地となり400機以上の特攻機が飛び立ちました。
富屋食堂
特攻の母と慕われた鳥濱トメさんが営んでいた食堂で、太平洋戦争で陸軍の指定食堂となり多くの隊員が訪れていました。