歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

伊佐市

鹿児島県伊佐市の曽木の滝

伊佐市は宮崎県や熊本県の県境にある鹿児島県本土最北の市です。周囲を九州山地に囲まれた盆地を形成しており中央部を川内川とその支流が流れます。県内屈指の米どころで伊佐米のブランド名で知られ、焼酎発祥の地と言われています。鉱石単位重量当たりの金の含有量世界一の菱刈鉱山があります。

概要

面積
392.56km2
人口
23,834人(2021年11月1日)
市の木
ひのき
市の花
さくら
地図

歴史

黒曜石の産地である伊佐市は旧石器時代から人の営みがあり、縄文時代の遺跡は縄文研究の先駆的な役割を果たして伊佐縄文と呼ばれました。菱刈氏が土着して支配を強めますが、やがて島津氏に支配されるようになりました。金山開発が進み坑内温泉水は湯之尾温泉などに供給されています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

伊佐市は黒曜石の産地で旧石器時代には石器を製作していた日東遺跡が残ります。縄文時代では手向山式土器の標式遺跡である手向山遺跡、日勝山式土器の標識遺跡である日勝山遺跡などが知られています。これらの遺跡は九州の縄文研究の先駆的な役割を果たし伊佐縄文の代名詞があります。

古墳時代、飛鳥時代

伊佐市の古墳は南九州特有の地下式板石積石室墓と地下式横穴墓の2つの墓制が混在しています。

伊佐市の大住古墳群

大住古墳群

5世紀頃の庶民の墓と言われます。34基が調査されていますが、一帯には100基を超える地下式板石積石室墓の存在が推定されています。

奈良時代、平安時代

9世紀頃には肥後からの技術の影響を受けて須恵器の窯跡が造られました。

伊佐市の岡野窯跡群

岡野窯跡群

政庁や国分寺などで使用される道具を製造するための窯跡が4基確認され、政治体制のもとで製作されていた社会状況を考察するうえで重要な遺跡となりました。

鎌倉時代、南北朝時代

菱刈氏の始祖・菱刈重妙が建久5年(1194年)に源頼朝の命で下向して太良城を築いて本拠とし、豊前宇佐八幡の神霊を勧請して郡山八幡神社を建立しました。中国元が侵攻した文永・弘安の役に参加した丸山・淵之上・赤池の三家の武士が筑前国(福岡県)の筥崎宮を勧請して箱崎神社を創建しました。本殿には室町時代の建築様式と琉球建築の様式の特徴があり16世紀初めに建てられたと考えられます。

伊佐市の太良城址

太良城址

菱刈重妙は保元元年(1156年)に後白河天皇の勅命により太良院と牛屎院を賜り、源頼朝の命で下向して築城したと言われます。

伊佐市の菱刈氏歴代の墓

菱刈氏歴代の墓

菱刈家の墓又は供養場として機能しており、永禄7年(1564年)の菱刈重州を最古として、永禄9年(1566年)の菱刈重猛の墓などがあります。

伊佐市の郡山八幡神社

郡山八幡神社

本殿北東の柱貫から永禄2年(1559年)の年号と「座主が一度も焼酎を飲ませてくれない」という木片が発見されたため伊佐が焼酎発祥の地とされました。

室町時代、安土桃山時代

永禄9年(1566年)に家督を継いだ菱刈隆秋は島津氏に反旗を翻したため、永禄10年(1567年)に島津氏は菱刈に侵攻して馬越城を落としました。菱刈氏は大口城で島津重臣の川上久朗に重傷を負わせるなど島津義弘の攻撃を防ぎましたが、永禄12年(1569年)に島津貴久、義久父子が大口城を攻略して新納忠元を大口地頭としました。

豊臣秀吉の九州征伐

天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州に侵攻すると、当主島津義久は徹底抗戦を主張する新納忠元をなだめて泰平寺で降伏しました。豊臣秀吉に抵抗する湯之尾地頭・梅北国兼は、天正20年(1592年)に肥後国の佐敷城を突如占拠して反乱を起こしました。反乱自体は数日で鎮圧されますが、反乱への関与を疑われた島津歳久が自刃に追い込まれました。

伊佐市の新納忠元の墓

新納忠元の墓

二才咄格式定目を定めて家臣を教育し、忠元水路と呼ばれる用水路を整備して土地を開拓しました。地元の英雄として忠元神社が建立され祀られました。

伊佐市の曽木の滝

曽木の滝

千畳岩の岩肌を削るように流れ落ちる景観から東洋のナイヤガラと呼ばれ、九州制圧を完了した豊臣秀吉が見物したことで知られます。

江戸時代

薩摩国の有力国人である祁答院氏は、江戸時代に島津氏の配下となり大口に移住しました。江戸時代中期に建造された祁答院家住宅は郷士と呼ばれる麓の武士の農業と接客を重視した建造物で、門の扉や石垣などは当時のまま残されています。西原八幡宮司の良眼房は、天保13年(1842年)に川内川の川浚え工事を行い、大口に用排水路工事を行い美田を造り上げました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)の西南戦争では政府軍に押された薩軍が人吉や大口方面に退き、薩軍の辺見十郎太は高熊山に布陣して激戦となりました。明治42年(1909年)に野口遵氏により曽木の滝の下流に水力発電施設を建造しました。

菱刈鉱山

昭和56年(1981年)に発見された菱刈鉱山は、日本で唯一の商業目的の採掘が行われる金鉱山です。金の埋蔵量が日本一を誇り、鉱石1トンあたりの金の平均含有量が33グラムあります。坑内から湧出する温泉水は湯之尾温泉などの温泉施設に供給されています。

伊佐市の西南戦争高熊山古戦場

西南戦争高熊山古戦場

薩軍の辺見十郎太は標高412メートルの高熊山に布陣して政府軍と激戦となりました。今も堡塁跡、銃弾、薬莢などが発見されています。

鹿児島県伊佐市の曽木発電所遺構

曽木発電所遺構

当時国内でも最大級の発電所でしたが、昭和40年(1965年)に鶴田ダムが建設されて湖底に沈みました。渇水期の5~9月頃に姿を現します。