姶良市
姶良市は鹿児島県のほぼ中央部の鹿児島湾(錦江湾)の奥に位置します。思川、別府川、網掛川、日木山川などの河川が姶良平野を形成しています。平成22年(2010年)に加治木町、姶良町、蒲生町が合併して誕生し、鹿児島市に隣接するベッドタウンとして発展しています。
概要
- 面積
- 231.25km2
- 人口
- 76,662人(2021年11月1日)
- 市の木
- くすの木
- 市の花
- やまざくら、つつじ
- 地図
歴史
姶良市は交通の要衝として古道が整備されました。島津氏が反旗を翻す蒲生氏などを大隅合戦で制圧して支配下に置きました。島津義弘が朝鮮から連れて来た陶工により窯が築かれ、以降も加治木島津氏の招きにより龍門司古窯を始めとして陶器が焼かれる町となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
姶良市には縄文時代から人が住み始め、弥生時代に帖佐や加治木の平野部に集落が造られました。建昌城跡には縄文時代草創期〜早期の遺跡が見つかり上野原遺跡に並ぶ集落遺跡として注目されています。
古墳時代、飛鳥時代
縄文時代から続く中原遺跡からは杭を伴う溝状遺構や焼土のある古道が発見されました。古道は幅6メートルある平松城方向に伸びる主要道として白銀坂とも関係が示唆されています。
奈良時代、平安時代
和銅6年(713年)に大隅国桑原郡が置かれ現在の姶良市の原型ができ大蔵氏が加治木地方を統治しました。天平13年(741年)の聖武天皇の詔により現在の霧島市国分に大隅国分寺が建立されることとなり、堂舎の屋根を葺く瓦を焼いた窯が宮田ヶ岡瓦窯跡で作られました。
加治木氏と蒲生氏
寛弘3年(1006年)に配流された藤原経平は加治木氏を興して統治を始め、藤原舜清は保安4年(1123年)に蒲生院で宇佐八幡宮を勧請して蒲生八幡神社を創建し、その子孫は蒲生氏と称して蒲生城を中心として支配するようになりました。
宮田ヶ岡瓦窯跡
大隅国分寺に使用する瓦が焼かれ、2万点を超える瓦が出土しています。焼いている最中に窯の天井が落ちて操業を止めたと考えられます。
蒲生八幡神社と蒲生の大クス
保安4年(1123年)に藤原舜清が創建しました。境内にある大クスは大隅国に流された和気清麻呂が刺した杖が成長したとの伝説があります。
鎌倉時代、南北朝時代
加治木を支配していた豪族加治木氏は、鎌倉時代中期の仁治3年(1242年)と寛元元年(1243年)に2つの宝塔を建てました。金剛界と胎蔵界の四仏が梵字で刻まれており、加治木氏8代親平夫妻又は加治木氏9代恒平の弟木田三郎信経夫妻の墓と言われています。
室町時代、安土桃山時代
豊州家島津氏初代の島津季久は享徳年間(1452~54年)に瓜生野城(のちの建昌城)を築城して居城としました。北薩の祁答院良重、蒲生範清、入来院重嗣らは島津氏に従わないため大隅合戦に突入し、弘治3年(1557年)に島津義弘が蒲生城を落として西大隅を平定しました。島津義弘は文禄4年(1595年)に栗野から帖佐へ移り住むと、黒衣の宰相と呼ばれた新納旅庵が館を築いて町割りを整備しました。加治木の地は加治木氏から伊地知氏が支配しましたが、伊地知氏の反乱に乗じて溝辺城から肝付兼演が入り、やがて島津氏の一翼を担うようになりました。
建昌城跡
豊州家島津氏初代の島津季久が築いて居城としました。初代藩主となる島津家久は居城の候補としました。
岩剣城
初陣を飾る島津義弘が攻めた城で、天文23年(1554年)に岩剣城が落城すると島津義弘が麓に館を築いて西大隅平定の拠点としました。
宇都窯
島津義弘が朝鮮から連れてきた陶工金海(星山仲次)により義弘好みの茶陶を焼いたといわれます。日本に類例のない窯で、白い粘土を用いた大振りの抹茶椀の破片が出土しました。
南浦文之墓
島津義久、義弘、家久に仕えて政治や外交で活躍し、日本儒学の発展に貢献したほか鉄砲伝来の様子を資料や伝承を鉄炮記に纏めています。
江戸時代
薩摩藩の主要街道である大口筋の一部として、藩内随一の難所に白銀坂が整備され、寛永12年(1635年)には龍門司坂が整備されました。また、藺牟田・祁答院方面と蒲生を結ぶ地方街道として掛橋坂が整備されて姶良市は交通の要衝となりました。
焼き物の郷
島津義弘が居所を移したことで、帖佐の宇都窯から陶工の金海も移り住みました。御里窯では朝鮮の陶法に瀬戸の技法を取り入れた技法で多くの茶道具が焼かれ、やがて金海は鹿児島に移り住み白薩摩の祖となりました。幕末の万延元年(1860年)には苗代川焼から陶工を招いて日木山窯の染付白磁が生まれましたが、明治時代に加治木島津家の援助を失うと廃止されました。
龍門司坂
薩摩藩の主要街道である大口筋の一部として整備された街道で、大名行列や物資の輸送が行われました。
掛橋坂
藺牟田や祁答院方面と蒲生を結ぶ地方街道で、白銀坂や龍門司坂と共通する部分が多いため同じ年代に整備されたと考えられています。
加治木屋形
慶長11年(1606年)に島津義弘が平松や加治木に移ると、慶長12年(1607年)に島津義弘は易学者の江夏友賢に命じて加治木屋形を定めました。
竜門司焼古窯
初代加治木領主島津忠朗が招いた山元碗右衛門が元禄元年(1688年)に龍門司焼を開窯しました。竜門司焼古窯は昭和30年(1955年)まで稼働しました。
加治木島津家墓所
加治木を中心に領有し、6代久徴(錦水)は天明4年(1784年)に毓英館を創設して長崎や江戸から優秀な学者を招来しました。
越前島津家墓所
元文2年(1737年)に越前島津家が再興されて重富を中心に領有しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
白銀坂
明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、西郷軍が白銀坂や龍門司坂を通り熊本へと向かいました。
金山橋
明治12年頃に島津家が当時の加治木港を起点として山ヶ野金山に通じる道を開いて石橋の金山橋を架橋しました。