薩摩郡

薩摩郡は鹿児島県の北西部に位置し、北部に紫尾山があり中央部を川内川が貫流しています。平成17年(2005年)に宮之城町、鶴田町、薩摩町が合併・成立したさつま町だけで薩摩郡を形成しています。温泉や竹林、田園風景などの自然が豊かで、国内有数のゲンジボタルの生息地として知られます。
概要
- 面積
- 303.9km2
- 人口
- 19,543人(2022年2月1日)
- 含む町村
- さつま町
- 地図
歴史
薩摩郡は旧石器時代から人の営みがありました。平安時代に勢力を広げた大前氏を渋谷一族が追い出して支配域を広げますが、守護の島津氏が勢力を盛り返して渋谷一族を屈服させて島津氏が統治下に置き、のちに宮之城島津家が治めて明治時代を迎えました。領内の永野金山は薩摩藩の財政を支え、昭和時代まで採掘が行われました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
薩摩郡には旧石器時代から人の営みがありました。井手原遺跡や向井原遺跡からは旧石器時代の黒曜石の石器や縄文時代前期の遺構・遺物が発見され、尾付野山遺跡からは白い蛇紋岩で作られた長靴のような形をしたアクセサリーが発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代には川内川流域に地下式横穴墓や地下式板石積石室墓が造営されました。

永野別府原古墳群
南九州でよく見られる石板で囲う石室を板石で蓋をした地下式板石積石室墓が6基が確認されています。

小松原古墳
地下式板石積石棺墓墓が7基発見され、石室内から人骨のほか鉄の刀剣などが発見されています。大和王権に反抗していた隼人の有力者の墓と考える研究者もいます。
奈良時代、平安時代
奈良時代に空覚上人により創建されたと伝えられる紫尾神社は、古くは紫尾山三所権現と呼ばれ祁答院七郷の総社として信仰を集め、空覚上人が紫尾山神興寺を興して栄えました。平安時代末期になると、国司制が衰退したことで大前氏が台頭して勢力を広げました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の執権北条氏は、宝治元年(1247年)の宝治合戦での活躍で千葉常胤の遺領である川内川流域の地頭に渋谷光重を任じました。宝治2年(1248年)に下向した渋谷光重は大前氏を追い出すと、子供たちに分割して東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、高城氏、入来院氏を名乗り統治させました。応永8年(1401年)に薩摩守護の島津氏が介入して鶴田重成、島津元久連合軍と東郷、祁答院、高城、入来院、島津伊久の連合軍が争う鶴田合戦が起こりました。

紫尾温泉
紫尾神社の拝殿下から湧き出ることから神の湯と呼ばれます。至徳元年(1384年)には神興寺を再興した快禅僧都が紫尾温泉を浴用として利用しています。

鶴田町大願寺跡墓塔群
大願寺は鎌倉時代後期から治めていた祁答院氏の菩提寺で、寺跡には開山堂跡と薬師堂跡に祁答院氏歴代の墓や大願寺住職の墓が建てられました。
室町時代、安土桃山時代
鶴田合戦で鶴田氏が没落すると、祁答院氏を含む渋谷一族は島津氏に従い帖佐や姶良へ勢力を伸ばしました。やがて島津氏内部で混乱を生じると、北薩は群雄割拠の時代となります。蒲生範清が島津貴久に反旗を翻して祁答院良重もこれに加担しますが、加治木城や岩剣城の戦いで島津貴久に敗れて虎居城に退きました。永禄9年(1566年)に祁答院良重が妻に刺殺されたことで遺領を入来院氏が引き継ぎますが、永禄13年(1570年)に入来院氏は東郷氏とともに島津貴久に降伏しました。
宮之城島津家
天正8年(1580年)に島津貴久の三男・島津歳久が虎居城に入り祁答院を治めますが、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉の怒りを恐れて吉野町で自害して果てました。その首は京都一条戻橋に晒されますが京都にいた島津忠長がこれを奪い今出川の浄福寺(のち宝林庵)に葬りました。文禄4年(1595年)に北郷氏が祁答院を領しますが都城の復帰を望んだため、慶長5年(1600年)に島津忠長に与えられました。

宗功寺墓地
宗功寺は宮之城島津家の菩提寺で、島津忠長以降の宮之城島津家の墓所が置かれました。明治時代の廃仏毀釈により宗功寺は壊されて墓だけが残されています。
江戸時代
4代宮之城領主・島津久通は信仰していた紫尾権現からお告げを受けて、寛永17年(1640年)に永野金山の金鉱が発見されました。江戸時代末期に川内川を利用して舟で年貢米を運べるようにするため、ノミと金づちだけで轟の瀬が開削されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和28年(1953年)まで採掘された永野金山は、明治45年(1912年)から大正8年(1919年)まで西郷隆盛の長男菊次郎が鉱業館館長を務め、夜学校を開設して人材育成に尽力しました。昭和41年(1966年)に完成した西日本最大級の鶴田ダムは、桜の名所としても知られています。
