出水郡
出水郡は鹿児島県北西端に位置し、伊唐島、諸浦島、獅子島ほか大小23の島が点在しています。四方を東シナ海、八代海、長島海峡に囲まれた海の幸の宝庫でブリは日本一の生産量を誇り、赤土の豊かな土壌で育つじゃがいもやかんきつ類などが特産です。
概要
- 面積
- 116.18km2
- 人口
- 9,479人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 長島町
- 地図
歴史
長島は古墳が多く造営されて古墳の島と呼ばれました。南北朝時代に天草八氏のひとつ長島氏が統治するようになりましたが、天草を狙う相良氏は堂崎城主を追放して天草越前守を置き、出水の薩州島津家が堂崎城を攻め落として島津家の統治下に置かれました。これにより肥後国から薩摩国に組み込まれて現在は鹿児島県に属するようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
特に記録は見つけられませんでした。
古墳時代、飛鳥時代
古墳の島と呼ばれる長島には、小浜古墳群や指江古墳群など200基を超える古墳があります。古墳は海岸線近くと見晴らしの良い丘陵に造営されており、そのほとんどが竪穴式石室を有する積石塚を形成しています。
明神古墳群
6世紀に長島の西海岸中央部に造営されました。石を積み上げて墳丘が造られ、鉄刀、錐、土師器、須恵器、人骨などのほか大量の鉄鏃が出土しました。
指江古墳群
明神古墳群と同じく6世紀に造営された古墳です。石積みの竪穴式石室が点在する独特の形式で、須恵器片と鉄刀が発見されています。
小浜崎古墳群(白銀古墳)
見通しの良い丘陵上に5世紀の古い形態の竪穴式石室がある小浜崎古墳群が造営されました。
加世堂古墳
長島の北東部の加世堂地区にある7世紀初頭の横穴式石室をもつ積石塚の帆立貝状の前方後円墳です。
奈良時代、平安時代
中国唐の先進的な文化を取り入れるため、7世紀初めから200年にわたり遣唐使が派遣されました。遣唐使は命がけの航海で、宝亀9年(778年)には帰国の途中で遭難した4隻のうち1隻が長島に漂着して41人が救助されています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代になると天草八氏の一族が長島を領有するようになり、長島氏を名乗るようになりました。長島氏は南北朝時代には堂崎城を築城して海の豪族として活躍しました。
室町時代、安土桃山時代
天草を狙う相良晴広は、天文23年(1554年)に長島鎮真を追放して天草越前守を堂崎城主としました。永禄8年(1565年)に野田領主島津忠兼が長島を攻撃して天草越前守が守る堂崎城が落城しました。これにより長島は肥後国から薩摩国に組み込まれることになります。長島を領有した島津忠兼でしたが、甥で薩州島津家当主島津義虎により誅殺されました。これを機に野田や長島では暴風雨や疫病が猛威を振るい、これを祟りと恐れて野田郷山内寺の豪契法師が祈祷して鎮静させました。
江戸時代
薩州島津家の島津忠辰が文禄2年(1593年)に改易されると、長島を含む出水郡が豊臣氏の直轄地を経て対馬国宗氏に与えられ、慶長4年(1599年)に島津本宗家の領地に戻されました。明暦3年(1657年)に長島郷が成立すると薩摩藩の外城の1つとなりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により長島は鹿児島県に属することになりました。明治22年(1889年)東長島村と西長島村の2村が置かれ、東長島村は昭和31年(1956年)に東町、西長島村は昭和35年(1560年)に長島町と改称して、平成18年(2006年)に両町は合併して長島町となりました。