歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

姶良郡

鹿児島県姶良郡の丸池湧水

姶良郡は、鹿児島県の中央北端に位置し東の霧島連山と北西の九州山脈矢岳支脈の両山系に挟まれシラスに覆われた盆地状の地形です。冷水が湧き出でる竹中池や丸池から川内川へと繋がり、用水路で豊富な水資源を巡らせることで肥沃な耕地が拓けています。

概要

面積
144.29km2
人口
8,959人(2021年11月1日)
含む町村
湧水町
地図

歴史

姶良郡は古くから人の営みがありました。平安時代から大隅正八幡宮領となり豪族が力を着けました。安土桃山時代に守護職島津氏が統治するようになり、この頃から江戸時代にかけて栗野岳で濾過された豊富で綺麗な水資源を活用するため、用水路を整備して新田が造営されました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

姶良郡は旧石器時代後期から人の営みが確認されています。旧石器時代後期の麦生田遺跡では、細石刃や細石鏃などが発掘されています。

古墳時代、飛鳥時代

栗野町には南九州特有の地下式横穴墓が造られ、人骨3体と鉄刀1本が出土しています。永山遺跡では土葬して周囲を板石で囲んだだけの庶民の墓が発見されています。

奈良時代、平安時代

大隅正八幡宮は広大な荘園を有しており、湧水町は大隅正八幡宮領となりました。和銅元年(708年)には栗野の総鎮守として、明治3年(1870年)に勝栗神社と改称される大隅正八幡宮の末社として正若宮八幡社が建立されました。

鎌倉時代、南北朝時代

文治元年(1185年)に源頼朝が島津忠久を薩摩・大隅・日向の地頭守護に任じたとき、相模国の山伏である愛甲忠雄は島津忠久に従い下向しました。愛甲忠雄は新熊山三蔵院の住職となり、庭前に熊野神社を祀りその社司も務めました。

鹿児島県姶良郡の栗野町稲葉崎の供養塔群

栗野町稲葉崎の供養塔群

暦応2年(1339年)の大板碑を中心に13基の板碑と無数の五輪塔が並びます。

鹿児島県姶良郡の栗野町田尾原の供養塔群

栗野町田尾原の供養塔群

数基の五輪塔に7基の方柱四面塔婆などがあり方柱塔婆は正平14/延文4年(1359年)と正平15/延文5年(1360年)のものが各2基あります。

室町時代、安土桃山時代

大隅肝付氏の支族で日向国真幸院を支配下にしていた北原氏は、勢力を広げて姶良郡も支配下に入りました。北原氏は正若宮八幡社への信仰が厚く、分明2年(1470年)に北原貴兼が正若宮八幡社(勝栗神社)を再興しました。北原兼親は永禄5年(1562年)に栗野と横川を支配下としましたが、永禄7年(1564年)に栗野や日向国真幸院を島津氏に献じて島津貴久が支配することになりました。島津貴久の子島津義弘は天正18年(1590年)に日向国真幸院の飯野城から栗野松尾城に移城して文禄4年(1595年)に帖佐に移るまで支配しました。

江戸時代

栗野地区は日に6トンの水が湧き出す丸池湧水があり、水資源が豊富を有効に活用するため寛文6年(1660年)に新田を開発するため北方新田用水路(室谷疏水)が開通しました。

鹿児島県姶良郡の丸池湧水

丸池湧水

35年かけて栗野岳で濾過された水が湧き出ており、良質な水は日本名水百選に選ばれています。

鹿児島県姶良郡の八幡大地獄

八幡大地獄

江戸時代中期に開かれた栗野岳温泉は明治9年(1876年)に西郷隆盛も訪れました。近くに栗野岳温泉の源泉である九州最大の噴気孔・八幡大地獄があります。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治9年(1876年)郷内川西柿木水流に竹中湖より用水路が新設されました。明治35年(1902年)には鹿児島の五大石橋を建造した岩永三五郎の流れを汲む肥後の石工が、栗野と大口を結ぶ旧伊佐街道に天神橋を架橋しています。