歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

曽於郡

鹿児島県曽於郡のくにの松原

曽於郡は鹿児島県の大隅半島東部に位置して志布志湾に面しています。豊かな自然と温暖な環境で農水畜産が盛んでマンゴーやサツマイモのほか養殖うなぎなどの特産品があり、白砂青松が広がるくにの松原はウミガメの産卵地でもあります。

概要

面積
100.67km2
人口
12,035人(2022年2月1日)
含む町村
大崎町
地図

歴史

縄文時代から人の営みが残される地域で、国内外の海上交通の拠点である志布志に近いことから商業地として領主たちの争奪の地となりました。現在は温暖な気候を利用したフルーツ栽培などの農業のほか畜産やウナギ養殖などが発達して自給率は400%を誇ります。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

永吉天神段遺跡から縄文時代前期の土器などが見つかり、下堀遺跡から縄文時代早期の蒸焼き調理施設、弥生時代中期の集落跡と古墳時代中期の地下式横穴墓群が見つかりました。麦田下遺跡からは弥生時代中期から後期の土器が出土し、弥生時代前期から古墳時代初頭にかけて断続的に営まれた沢目遺跡から瀬戸内海や東九州で見られる土器が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

飯隈遺跡群には多くの円墳が造営されて地下式横穴墓が発見されました。県内2番目の規模を誇る横瀬古墳が築造されたほか、田原川と持留川に挟まれた舌状台地に4基の前方後円墳と9基の円墳からなる神領古墳群が築造されました。

鹿児島県曽於郡の横瀬古墳

横瀬古墳

5世紀半ばの前方後円墳で、鹿児島県内では唐仁大塚古墳に次いで2番目の規模です。大和王権と深いつながりがある首長の墓とされています。

奈良時代、平安時代

奈良時代の役行者の弟子である義覚が新熊野三社権現を勧請して飯福寺を創建しました。元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡して、宮園に平家が落ちのびた伝承が残ります。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉時代の初めに肝付一族が築造した胡摩ヶ崎城は、南北朝時代に楡井頼重が南朝方の拠点としました。楡井頼重は正平12年(1357年)に北朝方の畠山直顕、島津貞久に攻められて自害しました。

室町時代、安土桃山時代

肝付兼光が大崎城を築いて心慶寺を建立ししました。伊作久逸が島津本家の島津忠昌に反旗を翻し、のちに豪族の配置転換が行われて、大崎城の肝付兼固が溝辺に移されて新納氏が入りました。守護職を巡り島津忠良・貴久親子と島津実久が争うようなると、天文8年(1539年)に島津忠朝、北郷忠相、肝付兼続が新納忠勝・忠茂親子を攻め滅ぼして新納領は分割されました。

戦ヶ島の戦い

天文22年(1553年)に肝付兼続が志布志城を攻め、この報復として志布志城主・甑清武は薬丸弾正兼持が守る竜相城を攻めました。弘治2年(1556年)の戦ヶ島の戦いは凄惨を極め、薬丸兼持は討死するなど300名以上が戦死して田原川下流域は鮮血で染まり、遺体で川が堰き止められたと言われます。

肝付氏の衰退

肝付兼続の没後に跡を継いだ肝付良兼が若年で亡くなると肝付氏は衰退しました。当主の肝付兼亮は伊東氏と連携して島津氏に戦いを挑みますが、元亀3年(1572年)に伊東氏が木崎原の戦いで大敗を喫すると連携が崩壊して天正2年(1574年)に肝付氏は島津氏に降伏し、天正5年(1577年)に比志島美濃守国守が地頭となり新たに大崎城を築城しました。

江戸時代

慶長5年(1600年)に馬場・城内を麓とする大崎郷が設立して地頭仮屋が置かれて迫水伊予介久光が地頭となりました。宝暦6年(1756年)に山下常政の娘を悼む六地蔵が建立されました。寛政8年(1796年)と寛政12年(1800年)の飢饉で内田武右衛門が自分の配給米を人びとに配りました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)の西南戦争で枦山贇一率いる薩軍が串良街道から侵入した政府軍偵察隊と交戦となりました。大正3年(1914年)や昭和21年(1946年)の桜島大爆発で被害を受けた人びとが受け入れられて移住しました。昭和16年(1941年)に始まる太平洋戦争では、本土決戦に備えて崎園や谷迫に砲台が建造されました。