肝属郡
肝属郡は大隅半島最南端に位置します。肝属山系や国見山系を源に発する肝属川の恵みを受けた肝属平野が広がり、鹿児島湾(錦江湾)、大隅海峡、太平洋、志布志湾に面します。黒潮の影響を受けて温暖な気候と豊かな自然から東洋のフロリダと呼ばれることもあります。
概要
- 面積
- 712.64km2
- 人口
- 33,121人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 東串良町、錦江町、南大隅町、肝付町
- 地図
歴史
肝属郡は、景行天皇が朝廷に反抗する熊襲を征伐するために訪れた土地で、古墳時代には日本最南端の古墳群が築かれました。平安時代に伴氏が荘園を管理して肝付氏と名乗るようになると、守護職の島津氏と激しく争うようになりました。戦国時代末期から島津氏が支配して明治時代を迎えると、昭和時代には第二次世界大戦の本土決戦に向けて基地が造られました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
肝属郡には縄文遺跡が発掘されており、この頃から人の営みがありました。景行天皇12年(82年)に熊襲を征伐するため景行天皇は内之浦に訪れました。景行天皇は国見山上陵からヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)を勧請して高屋神社を創建したとされています。叶岳は熊襲討伐が叶えられたことを記念して命名されました。
古墳時代、飛鳥時代
塚崎古墳群は日本最南端の古墳群で、前方後円墳5基、円墳54基が点在しています。弥生時代の住居跡も発見されており、弥生時代に発展して古墳時代に組織化した集団地帯と考えられています。鹿児島県最大規模の唐仁古墳群は、前方後円墳3基、円墳119基が残されています。
塚崎古墳群
塚崎という台地上にある群集墳で1号墳には楠の大木が根を張り塚崎の大楠と呼ばれる国指定天然記念物です。
唐仁古墳群(大塚古墳)
1号墳は大塚古墳と呼ばれ、墳長140メートル、高さ11メートルで県内最大で九州で3番目の大きさです。竪穴式石室は朱塗りで短甲と呼ばれる鎧が発見されています。
奈良時代、平安時代
和同元年(708年)に日向国三薬師のーつとして薬師寺が建立されました。安和元年(968年)に薩摩を治めるために伴兼行が派遣されると、伴兼行は伊勢神宮から分霊して永観2年(984年)に毎年10月に行われる流鏑馬で有名な四十九所神社を創建しています。伴兼行の孫にあたる伴兼貞は、長元9年(1036年)に大隅国肝属郡の弁済使となり肝属郡に移り住むようになり、兼貞の子伴兼俊が肝付姓を名乗るようになりました。また禰寝院の荘園は治歴5年(1069年)に藤原頼経の領地になります。
鎌倉時代、南北朝時代
高山を拠点に広範囲に勢力を広げた肝付氏は、平安時代末期には南九州に強固な基盤を築きました。鎌倉幕府が守護と地頭を任命して地方統治を行うようになると在地豪族と併存する形となり、肝属平野の肥沃な穀倉地帯は争いの場となりました。南北朝時代には肝付兼重は南朝方として参戦して、北朝方の島津貞久や畠山直顕と激戦を繰り広げました。
道隆寺跡
4代当主肝付兼員は、寛元4年(1246年)に宋から渡来した禅僧の蘭渓道隆のために道隆寺を創建しました。これが日本で最初にできた禅寺になります。
根占町川南宇都の板碑
正応6年(1293年)には岩林寺跡に追善や供養のために根占町川南宇都の板碑が設置されています。
室町時代、安土桃山時代
肝付氏は高山城を拠点に日向国の伊東義祐と連携して島津氏に抵抗しました。戦国末期の肝付兼続は大隅半島全体を制するほどの勢力を誇りますが、永禄9年(1566年)に兼続は亡くなりました。一説には、島津氏が高山城を落として兼続は自刃しましたとも言われます。元亀2年(1571年)に兼続の跡を継いだ肝付良兼が病没すると、次の当主となる肝付兼護は伊東氏の衰退、禰寝氏の離反や伊地知氏の降伏により、天正2年(1574年)に島津氏に降りました。
高山城跡
肝付氏が拠点として大隅を支配しましたが島津氏に降ると天正8年(1580年)に阿多(南さつま市)に移封され肝付氏による統治は終わりました。
盛光寺跡
文永9年(1272年)に5代肝付兼石が創建した盛光寺跡は、肝付氏の菩提寺として8代肝付兼重から肝付良兼までの高山城主が眠ります。
江戸時代
佐多旧薬園
薩摩藩は伊座敷村に佐多薬園を整備して、中国や東南アジアの珍しい薬草や果物を植えました。貞享4年(1687年)にリュウガンを植えたという記録が残されています。
二階堂家住宅
藤原氏南家系流の右大臣藤原是公の子孫は源頼朝から鎌倉の二階堂を与えられ、二階堂氏を名乗りました。その末裔が文化7年(1810年)に建てたと言われます。
志布志砂鉄採取地
夏井海岸から採取した砂鉄は山間部のたたら製鉄所で鉄にされました。志布志のたたら製鉄所で作られた鉄は集成館にも運ばれて高炉製鉄の原料に使用されました。
根占原台場跡
西欧列強が相次いで来航すると、これに危機感を強めた島津斉興は弘化4年(1847年)に鹿児島湾の防衛のために大砲2門を備える小規模な根占原台場を築きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
第二次世界大戦の末期には、本土決戦に備える日本軍が志布志湾の両岸に軍事施設を構築しました。内之浦には岩場を人工的に掘削した人間魚雷・回天の発射基地があり、3基の発射場跡が今も残ります。また小串集落には二連式のトーチカ(機関銃座)の跡が残ります。これらの基地は使われることなく終戦を迎えました。
佐多岬灯台
大隅半島南端の断崖から50メートル沖の大輪島にイギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントン設計で明治4年(1871年)に建造されました。
内之浦宇宙観測所
内之浦にはロケット打上場として宇宙観測所が設けられ、小惑星探査機はやぶさなどのプロジェクトが行われました。