大島郡
大島郡は、鹿児島県の奄美大島より南に位置します。本土と沖縄の中間に位置して黒潮文化の中継点としての役割がありました。第二次世界大戦が終結してアメリカ統治下に置かれますが、昭和28年(1953年)に日本に復帰しました。奄美大島、徳之島、沖縄県北部及び西表島の自然は、令和3年(2021年)に世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 931.92km2
- 人口
- 61,844人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 大和村、宇検村、瀬戸内町、龍郷町、喜界町、徳之島町、天城町、伊仙町、和泊町、知名町、与論町
- 地図
歴史
大島郡は海岸の砂丘を中心に人が生活を始めて、稲作や古墳文化を受け入れることなく日本本土が平安時代になるまで縄文生活を続けました。平安時代に琉球の支配下に入りますが、江戸時代初期に薩摩藩の支配下に入り黒糖生産で圧政が敷かれました。第二次世界大戦末期には本土決戦に向けて要塞化されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
古代の奄美諸島では、海岸の砂丘で人が生活を始めました。サンゴ礁が発達して自然の防波堤が形成されると、人びとは漁労で生活を営み多くの貝塚が多数形成されました。奄美諸島では、本土の稲作農耕文化や古墳築造文化が定着せずに狩猟採集の縄文文化が長く続きました。
面縄貝塚
伊仙町には縄文時代早期からグスク時代にかけて居住域と墓域、貝塚が複合したムラが形成しました。
中甫洞穴
沖永良部島の知名町にある鍾乳洞から奄美群島最古級の土器である爪形文土器が発見され、縄文時代前期の土器や弥生時代から古代の土器や石器なども出土しました。
住吉遺跡
沖永良部島に残される貝塚を伴う集落遺跡で、縄文時代から弥生時代初めに造営されました。竪穴住居跡は50棟ほどで石器や装身具のほか獣骨なども出土しています。
犬田布貝塚
イノシシの骨のかんざしやサメの骨の耳飾りなどの装飾品が発見して本土や他の島との交流を証明しています。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代の頃から琉球(沖縄)と大和で黒潮を巧みに利用して、貝の道と呼ばれる南海産の大型貝類の交易路が生まれました。貝の道は古墳時代にも続きましたが、奄美諸島では稲作農耕文化も古墳築造文化が受容されずに、これらの時代の特徴は認められていません。
奈良時代、平安時代
聖徳太子の時代の遣隋使に続いて舒明天皇2年(630年)から遣唐使が派遣されるようになりました。奄美群島は中国や朝鮮半島との交易拠点して機能して大和村の浦内湾は遣唐使船南島航路の寄港地となりました。文化的に遅れていた奄美群島は流刑の地として扱われ、平家転覆の陰謀が暴露して喜界島に流罪された僧侶俊寛がこの地で亡くなりました。
按司根津栄
この頃に与論島を治めた根津栄(ニッチェ)は琉球王に認められて与論島を治める按司(アジ)の地位を与えられました。按司根津栄は琉球王に謁見して与論島に戻ると、琉球と対立して攻められて命を落としました。按司根津栄神社には按司根津栄の頭蓋や遺品が奉納されています。
城久遺跡
喜界島で発見された製鉄遺構で、450棟を超える建物跡や土坑墓が見つかりました。
徳之島カムィヤキ陶器窯跡
平安時代後期から南北朝時代にわたり陶器が生産され、琉球列島全域と九州南部の広範囲に流通しました。
鎌倉時代、南北朝時代
弘長3年(1264年)に徳之島が琉球北山王国の勢力圏内に入りますが、これに合わせて徳之島カムィヤキ陶器の販売勢力も陰りを見せてきました。琉球北山王国はさらに沖永良部島や与論島を支配下として、北山国王の次男である真松千代を島主としました。
和泊町の世之主の墓
サンゴ礁で造られた琉球様式の墓で、北山王と敵対していた中山王が和睦するために派遣した船団を襲撃と勘違いして妻と供に自害した真松千代とその家族が眠ります。
室町時代、安土桃山時代
やがて沖縄本島の統一を目指した第一尚氏が応永23年(1416年)に琉球北山王国を滅ぼすと、与論島や沖永良部島を服従させて、文正元年(1466年)に琉球王国の尚徳が喜界島を攻略して奄美全島が琉球の統治に入りました。琉球統治時代に置かれた按司は薩摩藩統治時代でも影響力が強く、奄美大島の篠川に住んだ3代琉球国王義本の子孫である好徳は、木曽川工事で負債を抱えた薩摩藩に砂糖を献上した功により芝姓を名乗ることを許されました。
江戸時代
慶長14年(1609年)に島津氏が奄美に侵攻して薩摩藩の直轄となり、延享2年(1745年)に薩摩藩への上納税が黒糖になりました。島役人は私腹を肥やすようになり、享保18年(1773年)に加計呂麻与人の文仁演が薩摩藩に直訴状を提出して奄美全島の島役人が処罰される文仁演崩れと呼ばれる事件が起きました。これにより島役人の任命権が完全に薩摩藩に握られて薩摩藩の圧政が進められることになります。
母間騒動
文化13年(1816年)に台風による不作と天然痘の流行した徳之島では、不当な年貢の取り立てに対して母間騒動が起こりました。文政11年(1828年)には台風による不作で豪農に身売りする農奴が激増したことを受け、奄美本島南部の大地主林前織は難民に米を与え、島役人の清当済は藩の蔵の米を島民に与え、藩から役を解かれて不遇のうちに亡くなりました。自然災害に強いサトウキビの栽培面積は増えていきました。
サトウキビ
慶長16年(1611年)に直川智が清国よりキビ苗を持ち帰り試植を始め、薩摩藩の命を受けた孫の嘉和智は元禄3年(1690年)に琉球で製糖技術を習得しました。
新城花窪ニャート墓
享和4年(1804年)と文政7年(1824年)に沖永良部に代官として赴任した遠矢金兵衛夫妻の墓で、石灰岩をくり抜いた玄室が石垣に囲まれています。
戸森の線刻画
徳之島の海岸段丘上にある大小の船や弓矢の線刻で、目的は定かではありませんが、江戸時代初期に彫刻されたと考えられています。
須古白糖製造工場跡
寛政13年(1801年)に始まる白糖製造は農民が疲弊して中止されましたが、藩主島津久光は慶応元年(1865年)にイギリス技師と機械を導入して製造を再開しました。
西郷松
安政5年(1858年)の政局の変化で奄美大島に潜居を命じられた西郷隆盛は、竜郷集落の阿丹崎に上陸して西郷松と船を綱でつないで船を係留しました。
南洲流謫跡
西郷は愛加那と結ばれて菊次郎と菊草を授かり、文久元年(1861年)に新居を構えました。西郷は新居を構えて2か月後に鹿児島に戻りますが、翌年に沖永良部島に流されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治8年(1771年)にオランダ船が奄美大島の伊須に漂着して、村人の退去要求に対して発砲する事件が起こりました。薩摩藩は武士団を集めて対峙しましたが、大きな争いにならず補給を終えたオランダ人は出航していきました。朝虎松は奄美大島で初めてのカツオ漁業組合を設立しました。カツオ漁は大いに盛況して朝虎松はカツオ漁業の創始者と称えられました。
太平洋戦争と米国占領下
昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まると、昭和19年(1944年)に学徒を疎開させるために沖縄を出航した対馬丸が悪石島近海で魚雷攻撃で沈没しました。奄美群島は敵艦に特攻する震洋艇が配置されるなど要塞化されていきました。昭和20年(1945年)にアメリカ軍が沖縄に上陸して沖縄戦が始まると、現在の喜界空港が特攻機の中継基地となりました。敵機の攻撃が増えると志戸桶集落に模擬飛行場を建造して囮として特攻機を出撃させました。昭和20年(1945年)に日本が無条件降伏を受け入れて降伏すると、昭和21年(1946年)に奄美群島はアメリカ政府の占領下となり、昭和28年(1953年)に祖国復帰を果たしました。