歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

浦添市

沖縄県浦添市の浦添ようどれ

浦添市は沖縄本島の中南部に位置し、東側は丘陵地で西側に緩やかに傾斜して東シナ海の海岸へ続きます。琉球王国発祥の地として首里以前の琉球王国の王都があり、津々浦々を支配する意味の浦襲が転じて浦添となりました。伝統工芸品として琉球びんがた、琉球漆器、三線などが有名です。

概要

面積
19.48km2
人口
115,998人(2022年2月1日)
市の木
ホルトノキ
市の花
オオバナアリアケカズラ
市の花木
オオゴチョウ
地図

歴史

12世紀後半から舜天王、英祖王、察度王の三王統は、浦添城を中心に統治を行い、首里に遷都されるまで貿易や文化の中心として栄えました。太平洋戦争の沖縄戦で大きな被害を受けましたが、戦後は那覇市のベッドタウンとして人口が急増しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代にチヂフチャー洞穴遺跡などで生活していた人びとは、日本の平安時代のあたりまで狩猟採集を営み、浦添貝塚や嘉門貝塚などを造営しました。

沖縄県浦添市の浦添貝塚

浦添貝塚

縄文時代後期から晩期にかけて造営された貝塚で、奄美諸島で見られる土器のほか南九州の市来式土器が発見されており、沖縄と九州の交流が伺われます。

古墳時代、飛鳥時代

沖縄では稲作が普及せず、日本の平安時代まで狩猟採集の生活が行われていたと言われています。

奈良時代、平安時代

稲作の広まりにより各地に集落が造られ、集落は統合されて按司と呼ばれる有力者が生まれました。

鎌倉時代、南北朝時代

1229年に伊祖城で英祖王が誕生し、英祖王統の中心地として栄えました。13世紀末には浦添ようどれが造営され、浦添城の西には極楽寺が創建しました。

沖縄県浦添市の伊祖城跡

伊祖城跡

琉球の初期に栄えた英祖王の居城で、琉球神話に登場する国造の神アマミキヨが造営した御嶽のひとつでもあります。

沖縄県浦添市の浦添ようどれ

浦添ようどれ

13世紀に造営された英祖王の墓と言われ、1620年に尚寧王が改修しました。ようどれとは夕凪のことで、穏やかな表現が転じて墓を意味するようになりました。

室町時代、安土桃山時代

1350年に民衆に推されて察度が即して察度王統が始まり1372年に中国に朝貢を始めますが、察度王統は尚巴志に滅ぼされ、1429年に尚巴志が北山、中山、南山の三山統一を果たしました。1589年に王位についた浦添出身の尚寧王は、首里と浦添を結ぶ中頭方西海道を整備しました。

沖縄県浦添市の浦添城跡

浦添城跡

13世紀に建てられたグスクで、政権が首里城に移されたあとの第二尚氏3代尚真王の長男・尚維衡が住みました。沖縄戦で激戦地となり城壁などが失われました。

沖縄県浦添市の中頭方西海道及び普天満参詣道

中頭方西海道及び普天満参詣道

琉球王国時代に首里から読谷まで命令や租税の上納に使われた幹線道で、尚寧王の命令で道が拡張されて石橋や石畳に置き換えられる土木工事が行われました。

江戸時代

慶長14年(1609年)に薩摩藩が琉球へ侵攻して浦添城や龍福寺が焼失しました。1644年に国王の普天満宮参詣が始まり、中頭方西海道から分かれる形で普天満参詣道が整備されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治5年(1872年)に明治政府より一方的に琉球藩が設置され、明治12年(1879年)には陸軍と警察を派遣して沖縄県が設置されました。昭和20年(1945年)の沖縄戦では、浦添城がある丘陵は前田高地(ハクソー・リッジ)と呼ばれる日本軍の陣地が置かれ、激戦地となり大きな被害を受けました。昭和45年(1970年)に浦添市が誕生すると、昭和時代後期から人口が増加して那覇市のベッドタウンとして成長しました。

沖縄県浦添市の前田高地濠群

前田高地濠群

日本軍は前田高地の地形を利用して洞窟、トンネル、トーチカ連鎖陣形を構築し、濠口が一つ破壊されても問題ないように濠同士が繋がれていました。

沖縄県浦添市のティークガマ

ティークガマ

浦添城にある鍾乳洞が陥没してできた御嶽で、戦時中は激戦地となる前田高地などの戦没者の遺骨が納められ、のちに糸満市に移されました。