フマユーン廟
フマユーン廟はムガル朝第2代皇帝のフマユーンの墓所でフマユーンの妃であるペルシャ出身のハミーダ・ベーグムが1565年に建造しました。庭園の中に廟を置く形式でタージ・マハルに比べれば小さいながらもインド・イスラム建築の傑作とされています。
フマユーン
フマユーン(1508~1556)は、父がティムール王家、母がチンギス・ハーンという、ムガール帝国の創設者ザーヒルッディン・バーブルの長男として生まれました。22歳で王位を継ぎ第2代ムガール帝国皇帝となりましたが、あまり政治や軍事が得意ではなく即位して10年が経過すると東インドのビハール地方を支配していた総督がその領地の独立を唱えて反乱を起こしスール朝を起こします。
インド西端のシンド、ペルシャ、アフタ二スタンなどを流浪するするうち、33歳で19歳のペルシャ人のハミーダ・ベーグムを正妃とすると、その15年後にペルシャの援助のもとスール朝を打ち破り、1555年にムガル朝を再建しました。しかし、フマユーンは1556年に宮廷の図書館の階段から落ちて亡くなってしまいます。
フマユーン廟
フマユーン廟は王妃ハミーダ・ベーグムにより9年の歳月をかけて1565年に建てられました。庭園霊廟と言われる造りで、庭園も建物も左右対称の「庭園の中の廟」といわれます。フマユーン廟はタージ・マハルの原型と言われ、どことなくペルシャのモスクのような造りの霊廟は1983年にユネスコ世界遺産に登録されました。
左右対称の美しい造りです
近くで見るとペルシャ風の建造物です
フマユーン廟の庭園もペルシア的なチャールバーグ(四分庭園)の形式が採用されています。チャールバーグは庭園を水路で田の字形に仕切り、その各々がさらに小さな正方形に分割される庭園のことです。
2階のテラスからの眺めです
ヌール朝の重臣でムガル帝国と戦いました
フマユーン廟の敷地内には、フマユーン廟はよりも古い1547年に建てられた八角形のイサ・カーン廟があります。イサ・カーンはフマユーンが皇帝になったときのアフガニスタン系ヌール朝の貴族で、デリーに侵攻した際、ムガル帝国と戦いました。
フマユーン廟内部
フマユーン廟は高さは38メートルの中央ドームがあり、この中央ドームは中央アジア的な二重殻ドームをなしており、屋根をなす外側のドームは白大理石で覆われています。内部からドームを見上げるとムガール紋様の丸天井がありますが、至って質素な造りで薄暗くてひんやりしています。
墓室入口にはムガール紋様の丸天井があります
この石棺の下にフマユーンの石棺があります
フマユーン廟の内部にある大理石でできた石棺はレプリカで本物の棺桶はこの棺桶の下の奥にあります。またその近くには建築家たちの墓もあり、白い大理石でなく少し茶色のような棺桶でした。