八甲田山雪中行軍遭難資料館
八甲田山雪中行軍遭難資料館は、明治35年(1902年)に雪中行軍を敢行した旧陸軍歩兵第五連隊が八甲田山で遭難し山岳史上大惨事となった事件を展示する資料館です。当時の時代背景や行軍計画、遭難・捜索の様子を史実に基づいた資料の展示と映像で紹介しています。その隣には市が文化財史跡天然記念物に指定する犠牲者の陸軍墓地と多行松があります。
八甲田山雪中行軍の背景
明治28年(1895年)に日清戦争が集結し日新講和条約が締結されました。これに対しロシアを中心としたドイツ、フランス3国が反発します。日本国内では主戦論が活発化し日露戦争勃発の雰囲気に包まれていました。
当時世界最強と言われていたロシア軍との戦争になると長期間に渡る寒冷地での戦闘が想定されることになります。また、もしロシア軍が侵攻して来ると津軽湾と陸奥湾を封鎖し、陸軍が常駐する青森・弘前を避けて八戸付近を攻めて来ることを想定し、陸奥湾沿いの主要な街道が閉鎖された場合に備えて、厳冬期の八甲田山を越えて進軍できるかを検証する必要がありました。
八甲田山雪中行軍の行程
八甲田山の雪中行軍は、青森歩兵五連隊と弘前歩兵三十一連隊がそれぞれ八甲田山を進軍することになりました。弘前連隊に所属する38名は弘前から十和田湖の南側を経由して三本木から田代に入り八甲田山を越えて青森、弘前に戻るルートで、総延長距離224キロメートル、10泊11日の行程を計画しました。弘前連隊の隊員は地元青森・弘前出身者が多く、地元の猟師や農家から情報収集して徹底した冬山登山の準備をして臨みました。
一方、青森隊210名は現在の青森高校にあった兵舎を出発して幸畑、田茂木野、賽の河原を過ぎて田代で一泊して戻る往復40キロメートル、1泊2日の行程を予定しました。青森隊は宮城、岩手などの太平洋側地域の出身者がほとんどで雪山登山の知識が乏しく、1泊2日の遠足気分で装備も不十分な者が多いでした。
八甲田山雪中行軍の悲劇
1月23日早朝に青森連隊210名は重いそりを曳いて行軍を開始します。神成大尉が指揮し上官の山口少佐が随行しますが、隊の雰囲気としては宿泊地である田代は温泉があるため緊張感に欠け冬山を軽んじていた節がありました。この日は日本列島が大寒波に見舞われ、青森測候所では明治15年開設以来の最低気温を翌24日に記録しています。こうした天候を踏まえ、八甲田山麓の田茂木野で地元住民は入山を止めるよう忠告しますが、忠告を無視して青森連隊は八甲田山に進行してしまいます。
奥にはそりを曳いた人たちもいます
軍服に外套を着て背中には重い荷物を背負います
雪が深いため、そり部隊が遅れだし、天候も悪化して暴風雪になります。撤退の話もありましたが、地元住民の助言を断っている手前、先に進む判断を下してしまいます。完全に雪に埋まった山道は風を遮るものもなく、とても道迷いしやすい環境でした。
何とか馬立場にたどり着きますが、そり部隊が2時間以上も遅れているため先遣隊15名に調査させる一方で88人をそりの応援に向かわせます。午後5時にはそりでの運搬を断念して荷物を各隊員が分担して持つことにします。本隊は平沢で先遣隊と合流しますが、田代への道が分からず、ここで1回目の露営をすることにします。
携行品は炭、餅、握り飯、缶詰です
雪の穴の中で立ちながら足踏みしています
掘った雪穴で夜を過ごしますが、氷点下20度の雪の中では火がなかなか点かず、まともに食事を作ることができませんでした。眠ると凍傷になるとして軍歌斉唱や足踏みをして夜を明かします。午前2時頃に帰営することを決定して午前3時頃に馬立場を目指しますが、真夜中の猛吹雪で道に迷ってしまいます。
谷間に降りてしまい駒込川に阻まれると、これ以上の前進ができなくなり、仕方なく元の道に戻ろうと崖を登りますが、落伍するものが続出してしまいます。14時間もの長時間彷徨した末、鳴沢で2回目の露営をすることになります。雪濠を掘るにも道具を携行していた者は全員行方不明となり、吹き曝しの中で露営するしかありませんでした。食料は凍り食べることができず、すべての隊員は前日から不眠不休の状態でした。
深夜をまわり凍死する者が続出するため午前3時に出発を決断します。しかし、低体温で精神的におかしくなり発狂する者、又は川に飛び込む者など死亡者が続出します。生い茂る樹木を救助隊が来たと勘違いして歓喜に湧いたこともありました。こうした状況で斥候隊として田代方面と田茂木野方面に各6名の隊員を派遣します。田茂木野方面に派遣された高橋伍長以下6名の隊員が馬立場を発見し、本隊とともに馬立場まで戻りましたが、田代方面に派遣された斥候隊は戻ることはありませんでした。本隊は馬立場から青森方面に進んだ中の森で3回目の露営を行い、翌日は賽の河原で4回目の露営を行います。
雪が付着して凍ると凍傷になりやすいです
立ちながら意識を失い仮死状態で発見されました
その頃、青森駐屯所では救援隊60名が編成され捜索に向かいますが、吹雪により二次遭難の恐れがあったため捜索を断念します。この頃、本隊は中の森から二手に分かれ、山側を神成大尉が、駒込川沿いを倉石大尉が指揮して帰還を目指しますが、神成隊は落伍者が続出し2名になり、同行していた後藤伍長に田茂木野を目指して本部に報告するよう託します。救助を再開した救援隊は、立ったままで仮死状態の後藤伍長を発見し、後藤伍長の証言により周囲を捜索するとすでに亡くなっていた神成大尉を発見しました。しかし過酷な状況で救助隊も半数が凍傷になってしまったので、これ以上の捜索は困難と判断して引き返すことにします。
捜索隊からほぼ全滅の報を受けた本部は、のべ1万人を動員して捜索にあたることにします。田茂木野を拠点として捜索に当たり、倉石大尉ほか炭小屋などで避難していた隊員など17名を救助します。しかし病院で6名が亡くなり、最終的な生存者は11名のみで199名が亡くなる大惨事となりました。生存者も重度の凍傷により、ほとんどの者が両手足切断となりました。
幸畑墓苑
幸畑墓苑には市の史跡天然物に指定されている幸畑陸軍墓地があります。墓地と表記されますが、墓ではなく墓標が整備されているため、お骨は入っていません。ここには雪中行軍で遭難死した119名の墓標が並んでいます。墓標は階級別に整然と配置されていており、正面にある十体の墓標の中心には山口少佐、その隣に神成大尉の墓標があります。さらに生存した11名は十体の墓標の右にある石碑に刻まれています。また、正面向かって左側には95人、右側には94人がそれぞれ7列に配置されています。
資料館裏手に幸畑陸軍墓地があります
手前に下士官の墓標が整然と並んでいます
多行松は、幸畑陸軍墓地が作られたときに植栽された根っこから分かれている松です。徳島県にしかない貴重な松です。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒030-0943 青森県青森市幸畑阿部野163−4
- アクセス
- JR青森駅から市営バス(所要30分)幸畑から徒歩10分、幸畑墓苑から徒歩1分
- 営業時間
- 4月~10月:9:00~18:00
11月~3月:9:00~16:30 - 料金
- 410円
- 地図