白河関跡
白河関は、鼠ヶ関(念珠関:鶴岡市)と勿来関(いわき市)とともに奥州三関に数えられる古代関です。白河関は長らく正確な場所が不明でしたが、白河藩主松平定信が考証して古代関だと断定して寛政12年(1800年)に古関蹟の碑を建立しました。白河関は、昭和41年(1966年)に国の史跡に指定されました。
白河関の設置
白河関は、奈良時代から平安時代にかけて都から陸奥国に通じるみちのくの玄関口とされてきた古代関です。白河関が設けられた時代は、大和朝廷の勢力が日本各地に及んでいた訳ではなく、東北地方には蝦夷と呼ばれる大和朝廷の影響を受けない人たちが住んでいました。
陸奥国に通じる古代関です
保存状態が良い土塁と空堀があります
白河関は大和朝廷の勢力圏の北限と考えられており、蝦夷に対する前線基地の目的で設けられたと考えられており、敵の侵入を阻む目的で掘られた空堀跡や土を盛った土塁跡が残ります。のちに宮城県に多賀城が整備されると、白河関は後方基地としての役割を担いました。
白河関の興隆と衰退
平安時代後期の東北地方では、大和朝廷に納税を怠る反抗的な豪族が現れました。この豪族を征伐する前九年の役や奥州の権力争いである後三年の役では、源頼義、義家父子は白河関から奥羽に入りが起こりました。また源義経は、伝説的な商人・金売吉次とともに奥州平泉に向かうときに白河関から陸奥に入り、治承4年(1180年)に源頼朝の挙兵に駆け付ける際にも通行しました。この時に源義経は白河神社で戦勝祈願したとも言われています。
源義経が平家討伐の戦勝祈願をしました
松平定信が白河関跡であると断定しました
文治5年(1189年)になると、源頼朝は奥州藤原氏を征伐するために鎌倉衆を率いて白河関を通過して平泉に向かいました。白河関の廃絶の時期は明確ではありませんが、奥州藤原氏が滅亡して軍事的な役割を終えた12~13世紀頃と考えられています。白河関は長らく正確な場所などが不明でしたが、白河藩主松平定信が様々な記録などを考証してこの地を白河関と断定し、寛政12年(1800年)に古関蹟の碑を建立しました。
歌枕の名所
白河関は古来より歌枕(和歌の名所)として多くの歌人に詠まれた貴族たちのあこがれの場所でもありました。西行や宗祇など有名な文化人が訪れ、能因法師や平兼盛が詠んだ古歌碑もあります。江戸時代前期の俳人である松尾芭蕉は、白河関を訪れたときの心情を奥の細道で「白河の地で旅の心構えができた」と記しています。
貴族たちのあこがれの場所でした
高い官位がある人も訪れるほどでした
新古今和歌集の撰者の一人である鎌倉初期の歌人藤原家隆は、この地に訪れた記念として杉の木を奉納しました。この木は従二位の杉と呼ばれ樹齢約800年と推定されています。このように多くの文化人が遠く京から白河関を訪れています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒961-0038 福島県白河市旗宿
- アクセス
- JR白河駅から白河関の森公園行きバスで30分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図