大内宿
大内宿は下野街道(会津西街道、日光街道)にある宿場町です。江戸時代には会津藩のほか新潟や山形の各諸藩が参勤交代や物資を運ぶ街道として使用していました。明治期になると国道や鉄道の整備により寂れ、茅葺屋根の風景が当時のままに残されたことから、国の重要文化的建造物群保存地区に指定されています。
大内宿
江戸時代に整備された下野街道は、栃木県日光市と福島県会津若松市の全長130キロメートルを結ぶ街道でした。その街道の宿場町として大内宿が整備され、人や物資の輸送のため多くの人で賑わいました。しかし、幕末には戊辰戦争で大きな被害を受け宿駅としての機能を失いました。
明治17年(1884年)に大川に沿って国道121号線が造られ鉄道が引かれると宿場はさびれていきました。これにより大内宿は発展することもなく茅葺屋根の風景は当時のままに残されることになります。昭和56年(1981年)には、長野県の妻籠宿と奈良井宿に続く全国3番目の国の重要文化的建造物群保存地区に指定されました。
見晴台から見た大内宿です
茅葺屋根の建物が並びます
大内宿は茅葺屋根の建造物が並びます。道は舗装されず土の道になり、道の両側の家屋との間には水が流れています。茅葺屋根の建物は火事が大敵なので、大内宿の中心には火の見櫓が造られ、家屋の近くには水路が作られて常に水が流れています。
道の両側に水路があります
茅葺屋根は火事が大敵でした
大内宿には30軒ほどの茅葺屋根の家屋が残されています。住んでいる方々は住民憲章により、売らない、貸さない、壊さないと決めて伝統的な家屋を維持し続けています。茅葺屋根を維持は、集落の方々で結成される「結」と呼ばれる組織により一気に屋根の修復が行われます。
伝統的な茅葺屋根の建物です
以仁王が大内宿に落ち延びた伝説があります
大内宿には高倉神社の鳥居があります。高倉神社は平安時代に創建され、後白河天皇の第三皇子・高倉宮以仁王が平清盛の最盛期に平家追討の兵を挙げますが破れて大内宿に落ち延び、ここで生涯を終えて高倉神社に祀られたと言われます。(以仁王の墓は京都木津川市にある高倉神社にある)
大内宿は雪深い地域で2月に雪まつりが行われます。雪景色の道の両側に燈籠が並びます。その中に明かりを灯して夜はライトアップされます。江戸時代の情緒が残る宿場町が幻想的で美しい光景になります。
大内宿町並み展示館
大内宿町並み展示館は、大内宿本陣跡に復元された宿駅時代の本陣です。本陣は会津藩主が参勤交代した際に滞在する宿舎で、昭和59年(1984年)に資料館として復元された建物です。大名の宿舎であるため、防備のための工夫があり、身分の高い人のみが出入りする乗込み(玄関)や雪隠(便所)、殿湯(風呂)があります。
生活用具が展示されています
囲炉裏は薪が燃えています
囲炉裏には薪が燃やされていて、資料館の方が時折、火の面倒を見ています。囲炉裏に火をかけているのは、寒いからでも雰囲気を出す演出だけの目的ではなく、この薪から上がる煙が茅葺屋根の保存に必要なためだそうです。
殿様が寝食された部屋でしょうか
殿様はこのような風呂に入っていました
囲炉裏のある部屋から奥に行くと、中の間、次の間、上段の間と呼ばれる座敷部屋が続きます。中の間には甲冑が展示されており、次の間の奥にある上段の間は書院造の部屋になっています。座敷を過ぎた通路には雪隠(便所)の部屋とその隣に殿湯(風呂)があります。
かつて使われていた道具です
二階部分は倉庫として使われていました
大内宿は戊辰戦争で大きな被害に遭い、国道や鉄道が整備されたことから宿駅としては廃れていきました。大内宿では、養蚕や麻栽培を行う農村集落へと変わっていきました。そうした生活の中で使われた用具が資料館では展示されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒969-5207 福島県南会津郡下郷町大内
- アクセス
- JR湯野上温泉駅からバスで約20分
- 営業時間
- 9:00~16:30(大内宿町並み展示館)
- 料金
- 250円(大内宿町並み展示館)
- 地図