白河官衙遺跡群
白河官衙遺跡群は、白河郡の古代役所跡である関和久官衙遺跡とその付属寺院である借宿廃寺跡で構成されます。白河官衙遺跡群の北西には下総塚古墳などの白河舟田・本沼遺跡群があることからも、古くから古代白河郡の中心地として栄えていました。これらの遺跡は、古墳時代の白河舟田・本沼遺跡群から白河官衙遺跡群へと発展していく過程を示していることから重要視されています。
律令国家の成立と官衙の役割
官衙とは飛鳥時代から平安時代に地方に置かれていた役所を意味します。これまでの時代は、各地を豪族が治めて独自の政治を行い、中央でも力の強い豪族が話し合いをして政治を行いました。飛鳥時代初期に仏教が伝来すると、賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏が争い、戦いに勝利した蘇我氏が勝利して仏教が国内に広まることになります。
6世紀に日本に仏教が伝来しました
蘇我氏が滅亡して天皇中心の国造り
中大兄皇子と中臣鎌足により蘇我入鹿が殺害されると、大化の改新と呼ばれる天皇中心の国造りへと進められました。中臣鎌足の子・藤原不比等は刑部親王とともに大宝元年(701年)に大宝律令を制定し、地方には国、郡、里が設けられ、平民は祖(米)、庸(労働又は布)、調(特産品)の税を納めることになりました。
日本で初めての貨幣もできました
陸奥国の国府として多賀城が置かれました
国は現在の都道府県のような行政組織で、京から国司が派遣されて国衙(国府)と呼ばれる役所で戸籍管理や税政、裁判などを行いました。国の下には現在の市町村のような郡が置かれ、地元の有力者が郡司として郡衙(郡家)で税政や軽い裁判を行いました。その下には里が置かれ、里の中の有力者が里長に選ばれました。
関和久官衙遺跡
関和久官衙遺跡は、7世紀末から10世紀後半まで機能した陸奥国白河郡の古代の役所と考えられています。阿武隈川北岸の河岸段丘上に東西270メートル、南北460メートルの敷地を大堀が囲み、敷地内には整然と立ち並ぶ礎石建物跡(正倉院)などが確認されています。
大堀の内部に正倉院や建物がありました
水田が広がり農家が集中する地域に遺跡はあります
発見された古瓦は多賀城で使用される瓦と類似しており、倉庫跡の周辺から焼けた籾が大量に出土していることから、税として納められた籾が収納されていたと考えられています。関和久官衙遺跡は白河官衙遺跡の一つとして、昭和59年(1984年)に国の史跡に指定されました。
借宿廃寺跡
借宿廃寺跡は、関和久官衙に付属する古代寺院跡で7世紀末に造営されました。西側に塔、東側に金堂があり、その北側に講堂がある法隆寺式の伽藍配置されていました。瓦や塼仏、瓦塔などが発掘されていますが、塼仏は東北地方では借宿廃寺跡のみで確認されています。
白河舟田・本沼遺跡群に近い畑の中にあります
多賀城に共通する複弁六葉蓮華文軒丸瓦などの瓦が発掘されました
借宿廃寺跡で発見された複弁六葉蓮華文軒丸瓦などの瓦は、陸奥国府の多賀城跡の奈良時代の瓦と共通する特徴があります。借宿廃寺跡は白河地方の奈良時代の貴重な仏教文化の遺物であり白河郡衙の歴史を物語る遺跡として、平成22年(2010年)に白河官衙遺跡群の一つとして国の史跡に指定されました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒969-0103 福島県西白河郡泉崎村北平山古寺
- アクセス
- JR白河駅からバス30分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図