宇都宮の成立と二荒山神社
宇都宮二荒山神社は、第十代崇神天皇の時代に創建されたと伝えられる神社です。豊城入彦命、大物主命、事代主命の3柱の神様が祀られている下野国一之宮で、宇都宮城主が社務職を務めました。宇都宮は二荒山神社の門前町として栄え、明治時代に師団が設置されると門前町は映画館などが建ち宇都宮の浅草として北関東一の賑わいを見せました。
豊城入彦命と宇都宮
第十代崇神天皇は、48年に皇子である豊城入彦命に東方12国の治世に当たらせました。豊城入彦命は蝦夷を平定するため、毛野国と呼ばれる東国に大軍を率いて遠征しました。豊城入彦命は本拠を宇都宮に定め、毛野国の治安に一生を捧げました。
豊城入彦命が本拠とした宇都宮は、池辺郷と呼ばれる池や沼が広がる地域でした。豊城入彦命はこの地を開拓して衣食住など生活に必要な産業を推奨しました。こうした貢献により豊城入彦命は上毛野と下毛野の始祖となり、その御霊は永遠にこの地を鎮めるとして宇都宮二荒山神社に祀られるとされています。
二荒山神社の創建
4~5世紀に豊城入彦命の四世孫である奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられると、豊城入彦命の偉業を偲び豊城入彦命に国土開拓の大物主命と事代主命を合わせて荒尾崎(現在の下之宮)に祀りました。二荒山神社は東国12国の鎮守の神であり、東国の民の信仰を集めることになります。
階段を登った先にある拝殿です
東国の民の信仰を集めた下野国一之宮です
承和5年(838年)に現在の臼ケ峰に遷座されたと伝えられています。臼ヶ峰の隣には小寺峰があり、両方を合わせて二荒山と呼ばれていました。江戸時代の町割りにより山は道で二分され、小寺峰は次第に削られて現在は臼ヶ峰のみが残されていますが、宇都宮の町は二荒山神社の門前町として発展していきます。
宇都宮氏と二荒山神社
延長5年(927年)の延喜式神名帳には下野國河内郡一座大 二荒山神社 名神大と記載があり、栃木県内唯一の名神大社として篤く崇められました。また、平安時代から鎌倉時代に各国で最も格式が高い神社を一之宮に指定されましたが、二荒山神社も下野国一之宮とされています。一説では、宇都宮の地名はイチノミヤが転じたものと言われています。
神門をくぐると手水舎がありました
神様に奉納する舞が披露されました
康平6年(1063年)に宇都宮社務職に就いた藤原宗円は、宇都宮の政治と宗教を掌握する存在となりました。藤原宗円は二荒山神社の社号である宇都宮を姓として宇都宮氏を名乗るようになり、宇都宮城を居城としました。二荒山神社の社務職は宇都宮城主が務めることとなり、明応9年(1498年)には宇都宮成綱が社殿を建替えています。
宇都宮二荒山神社
二荒山神社の御祭神は武徳にも優れていたことから、平将門の乱で遠征した藤原秀郷や前九年と後三年の役に派遣された源頼義、源義家のほか源平合戦の源頼朝などが宝物の寄進や社殿改築を行いました。社務職を兼務していた宇都宮氏が慶長2年(1597年)に豊臣秀吉により改易となりますが、武家からの信仰は篤く、徳川家康が関ケ原の戦いの戦勝祈願をしています。
階段の両側は大谷石の石垣です
赤鳥居の先に豊穣・商業の神様がいます
参道石段の左右の石垣は、江戸時代に大谷石で組まれ、境内には女体宮(安産の神)、菅原神社(学問の神)、市神社(商業の神)、十社(県内内社の神)と多くの末社があります。須賀神社のご祭神は、現在は素戔嗚尊(すさのおのみこと)ですが、明治期の神仏分離以前は牛頭天王でした。須賀神社の例祭が天王祭と呼ばれるのはそのためです。
戊辰戦争から現在
慶応4年(1868年)に戊辰戦争で城内の建築物が焼失しましたが、明治10年(1877年)社殿が再建されました。明治42年(1909年)に明治天皇が訪れると、古くから名水として知られる明神の井戸の水でお茶が立てられました。
名水と言われる明神の井があります
兵士を相手にした屋台などが並びました
宇都宮城との間にある二荒山神社の麓には馬場が転じたバンバ広場があり、大正時代に門前町として常設の屋台店が建ち並び繁華街となりました。明治40年(1907年)に第14師団が配置され、宇都宮は軍都として兵士を相手にした映画館や芝居小屋が立ち並び、宇都宮の浅草として北関東一の賑わいを見せました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒320-0026栃木県宇都宮市馬場通り1丁目1−1
- アクセス
- JR宇都宮駅から徒歩20分、東武宇都宮駅より徒歩15分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 無料
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