四谷

新宿区四谷は、日本橋を起点に長野県下諏訪まで続く甲州街道に開かれ、江戸時代から商業地として栄えました。四谷の名称は4軒の茶屋が並んでいたことを意味する四屋が四谷に転じたとした説と、付近にある4つの谷から名付けられた説が残されています。
甲州街道の要衝
江戸時代初期の四谷は、河川が流れる手つかずの土地で湿地帯でした。江戸幕府を開いた徳川家康は江戸城の整備すすめ、その過程で四谷は次第に発展していきました。甲州街道が整備されて人の往来が増えると、江戸城外堀を造営するときに江戸城の西の守りの要所として枡形門(警備のための城門)を設置して人の往来を取り締まるようになりました。
四谷東部に外堀ができました
江戸城への出入りを見張りました
枡形門には見附と呼ばれる見張番所が設けられ、見付に常駐する役人が出入りする者を監視していました。枡形門は明治5年(1872年)に撤去され、現在は石垣の一部が残されています。
四谷大木戸と玉川上水番所
江戸城から甲州街道の出入口には元和2年(1616年)に四谷大木戸が設けられました。地面に石畳を敷いて石垣の両側に木戸が設けられ、建造当初は夜に木戸を閉めて通行を制限していました。元禄12年(1699年)に浅草で遊郭を営んでいた高松喜六は、幕府に5千両を超える上納金を納めることを条件に内藤新宿の東に町屋を造り遊郭などを整備しました。こうして発展を遂げると、寛政4年(1792年)からは木戸が撤去されて昼夜を問わず人が往来できるようになりました。
夜の時間は通行できないように木戸がありました
江戸市中に飲料水を供給する玉川上水の管理場がありました
玉川上水の開削に貢献した庄右衛門と清右衛門兄弟は、玉川姓を名乗るようになり上水の管理を行う水元役に任命されました。玉川氏は上水の維持管理費の名目で武家や町家から収入を得ていましたが、職務怠慢により水不足が起きるようになり玉川氏を免職としました。幕府は承応2年(1653年)に玉川上水の水番所が設けて、江戸に水を供給する水路や堰の管理をするようになりました。
鮫河橋とスラム街(貧民窟)
江戸時代の四谷には鮫川が流れ鮫河橋が架けられていました。当時は海が近いため鮫川に鮫が泳いできたことで名付けられたと言われます。この鮫河橋がある地域は、粘土層の水はけの悪い低地のジメジメした湿地帯で、生活に厳しい人たちが多く住むようになりました。笹寺の住職たちは毎日三銭を提供して三銭学校を運営し、貧困層の子供たちに教育を施しました。
鮫川の近くには貧乏窟が造られていました
笹寺の住職が中心となり貧困層の子供を教育しました
明治時代にも鮫河橋の周囲には貧乏長屋が連なり、鮫河橋の北にある陸軍士官学校の残飯を安値で買い取り、貧民窟で転売する商売が成立していました。残飯は貧しい人たちから好評で、多くの人たちが残飯で命を繋ぐことができました。鮫河橋は昭和初期まで貧民窟が置かれ、日本最大級のスラム街と言われるほどに成長しました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒160-0004 東京都新宿区
- アクセス
- JR、東京メトロ四谷前駅から徒歩10分圏内
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図