まいぷら

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高田馬場/早稲田

東京都新宿区の旅行で訪れた観光名所、早稲田大学

高田馬場や早稲田の地域は、尾張徳川家、彦根藩井伊家、高松藩松平家などの下屋敷がありました。明治時代になると尾張徳川家の下屋敷は陸軍戸山学校が設けられ、日本の近代化に尽力した大隈重信は早稲田大学の前身となる東京専門学校を設立し、若者が溢れる活気ある街となりました。

穴八幡宮

康平5年(1062年)に奥州を平定した源義家(八幡太郎)は、氏神八幡宮を勧請して東北鎮護の社を創建しました。寛永13年(1636年)に3代将軍徳川家光により高田馬場が造営されると、早稲田に居住する松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀しました。

穴八幡宮

東京都新宿区の穴八幡宮平安時代に創建されました

穴八幡宮

東京都新宿区の穴八幡宮射芸の守護神として八幡宮を奉祀しました

寛永18年(1641年)に境内から黄金の御神像が安置された横穴が見つかり、穴八幡宮と呼ばれるようになりました。江戸城北の総鎮護として隆盛を極めましたが、安政元年(1854年)の青山火事の類焼により仮社殿のまま明治時代を迎え、その後修復がなされるも太平洋戦争の罹災を経て現在の社殿となりました。

高田馬場

寛永13年(1636年)に3代将軍徳川家光により旗本らの馬術の訓練のために馬場が造営されました。8代将軍徳川吉宗は、世嗣の疱瘡平癒祈願のため享保13年(1728年)に流鏑馬を高田馬場で行い穴八幡宮に奉納しました。これ以降は歴代の将軍家の厄除け祈願のため、流鏑馬が行われて穴八幡宮に奉納されるようになりました。

流鏑馬

東京都新宿区の流鏑馬像穴八幡宮に流鏑馬が奉納されました

高田馬場

東京都新宿区の高田馬場高田馬場で流鏑馬が執り行われました

元禄7年(1694年)に伊予西条藩の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門は口論から高田馬場で果し合いに発展しました。高田馬場の決闘と呼ばれた事件は、劣勢の菅野が義理の甥中山安兵衛の助太刀により勝利ししました。中山安兵衛は赤穂藩士の堀部金丸の婿養子となり堀部安兵衛となり、元禄15年(1703年)に赤穂義士の一人として吉良邸への討ち入りに加わりました。

林氏墓地

儒学者林羅山は、方広寺鐘銘事件で豊臣家を滅ぼす口実を与えるなど、徳川家康の政治顧問として重用されていました。林羅山は徳川家康から4代将軍徳川家綱まで仕え、武家諸法度を制定や昌平坂学問所の前身となる私塾を開校するなど活躍しましたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で貴重な蔵書を焼失したことに落胆して亡くなりました。

林氏墓地

東京都新宿区の林氏墓地屋敷を与えられ墓が置かれました

林氏墓地

東京都新宿区の林氏墓地林羅山ら81基の墓が残されています

林羅山の墓は上野忍ヶ岡の別邸内に営まれましたが、元禄11年(1698)に3代林鳳岡が牛込山伏町に屋敷を拝領したため、林羅山ら林一族の墓地も屋敷内に移されました。現在は、8代述斎から11代復斎までの4基の儒葬の形式の墓を含む81基が保存されています。

山鹿素行

会津に生まれた山鹿素行は林羅山から朱子学を学びますが、観念的な理論と内面的な修養を重視する朱子学に不満を抱き古学に転じました。農工商を正しく教え導く立場として武士の道徳を重んじ、武士は高潔な人格者として仁政を施さなければならない士道を提唱しました。

山鹿素行墓

東京都新宿区の山鹿素行墓墓地の一角に墓があります

山鹿素行墓

東京都新宿区の山鹿素行墓赤穂浪士に大きな影響を与えました

山鹿素行は承応元年(1652年)に赤穂藩初代藩主浅野長直に仕え、赤穂藩士に山鹿流兵学や儒教などを教えました。やがて江戸に居住して朱子学を批判した聖学を出版すると、幕府から赤穂への流罪が言い渡されました。赤穂では家老大石頼母助の邸宅の一部が与えられ、大石良雄(内蔵助)ら赤穂浪士に影響を与えました。

戸山荘と戸山公園

尾張徳川家の下屋敷が置かれ戸山荘と呼ばれていました。2代藩主徳川光友は、水戸家の小石川後楽園に匹敵する回遊式庭園を下屋敷内に造営しました。池の造営で掘られた土は玉円峰と称される築山となりましたが、のちに箱根山と呼ばれるようになりました。

戸山荘跡

東京都新宿区の戸山公園紀伊徳川家の下屋敷がありました

箱根山

東京都新宿区の戸山公園池を造営した土で築山が造営されました

紀伊徳川家下屋敷は明治時代を迎えて政府の所有となり、庭園は壊されて陸軍戸山学校が設けられました。陸軍戸山学校には射撃場や軍医学校などが設けられましたが、第二次世界大戦が終結するとGHQに接収され、一部が都立公園として整備されました。

早稲田大学

明治時代に自由民権運動が活発化すると、国会の開設や憲法の制定が叫ばれるようになりました。イギリス流の立憲政治を目指す大隈重信は、明治15年(1882年)に立憲改進党を結成するとともに、立憲政治の指導者的人材を育成するため東京専門学校を設立しました。

大隈講堂

東京都新宿区の早稲田大学昭和2年(1927年)建造です

大隈庭園

東京都新宿区の早稲田大学大隈重信邸宅に整備された庭園です

東京専門学校は明治35年(1902年)に早稲田大学と改称され、大隈重信は明治40年(1907年)に早稲田大学総長となりました。大正8年(1918年)に大学令が公布され、私立の専門学校も大学に昇格できるようになり、早稲田大学は大正9年(1920年)に大学として認可されました。

まち旅(旅行、観光)の記録

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まち旅(旅行、観光)の記録
住所
東京都新宿区戸塚町、弁天町、谷山伏町
アクセス
JR高田馬場駅、東京メトロ早稲田駅
営業時間
料金
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