京都府京都市

京都市は、京都府南部に位置する府庁所在地で政令指定都市です。三方を山に囲まれる内陸盆地で、京都盆地には千年以上にわたり都が置かれて日本の中心として栄えてきました。古都京都の文化財として世界遺産に登録され、神社仏閣や史跡のほか雅な文化が今でも色濃く残る都市です。
- 面積
- 827.83km2
- 人口
- 1,452,962人(2021年11月1日)
- 市の木
- シダレヤナギ、タカオカエデ、カツラ
- 市の花
- ツバキ、ツツジ、サトザクラ
- 自治記念日
- 10月15日
- 地図
京都市を巡る歴史
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
洛北や洛西、山科盆地中央部などで人の営みが始まり、大沢地遺跡や菖蒲谷遺跡、大枝遺跡などで旧石器時代の遺物が確認されています。縄文時代には北白川や山科盆地の丘陵部に北白川縄文遺跡群や日野谷寺町遺跡などの集落がつくられました。弥生時代になると、深草や桂川沿いなどの平野部に深草遺跡や中久世遺跡などの集落がつくられました。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀になると大和王権の影響下に置かれ、樫原に住む有力な豪族が天皇の杜古墳などをつくる。5世紀になると深草に秦氏が進出して黄金塚古墳などの大型古墳が造営され、5世紀半ばには秦氏が嵯峨野へも進出し大堰川に葛野大堰を築いて開発を進めました。 6世紀 嵯峨野・松尾などに群集墳が多数つくられた。
●蛇塚古墳 ●天塚古墳7世紀 このころ,京都盆地に広隆寺・法観寺・北野廃寺・北白川廃寺などの寺院がつくられはじめる。 ●(678年)賀茂社(上賀茂神社、下鴨神社)創建 7世紀後半 山背国という行政区画が成立した。大和と全国をつなぐ交通路の整備により,現市域内には北陸道・山陰道が通った。
奈良時代、平安時代
延暦13年(794年)に桓武天皇が長岡京から平安京に遷都して山背国を山城国に改めました。 ●(796年)桓武天皇、東寺創建 ●(805年)坂上田村麻呂、清水寺建立 弘仁元年(810年)に平城上皇が平城京への遷都を試みるが失敗(薬子の変) 弘仁9(818)年4月 宮中殿閣・諸門・条坊などの呼称が唐風に改められ,銅駝坊・陶化坊などの呼称が用いられる。 弘仁年間(810~24) 検非違使庁が設置され,平安京および周辺地域の治安維持にあたった。 天長元(824)年 この年防鴨河使・防葛野河使を置く。 ●(874年)理源太師、醍醐寺を山上に開く ●(887年)宇多天皇、仁和寺創建 ●(894年)菅原道真の意見で遣唐使を廃止 985頃 「枕草子」「源氏物語」など女流文学が盛んになる
●醍醐寺三宝院庭園 ●醍醐寺境内 ●平安宮跡 ●内裏跡 ●朝堂院跡 ●豊楽院跡 ●高山寺境内 京都市右京区 高山寺は、774年の創建された由緒ある古刹です。1206年に明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興されました。寺宝は数多く、鳥獣人物戯画をはじめ、国宝8点、重要文化財1万点余りを所蔵。境内は国の史跡にも指定されています。 ●法金剛院青女滝 附 五位山 京都市右京区 法金剛院は京都市右京区の花園にある律宗の寺院である。この寺院は平安時代初期に右大臣であった清原夏野(きよはらのなつの)の山荘を起源としており、その際、山荘には珍しい花々が植えられていたことから、その付近一帯のことを花園と呼ぶようになったという。昭和45(1970)年、その法金剛院の境内から平安時代に作られた浄土庭園が発掘され、復元整備がなされた。その庭園の中でも、特に五位山のたもとから発見された青女の滝は、平安時代の浄土庭園の様子を現在に伝える遺構として貴重である。 ●仁和寺御所跡 京都市右京区 ●仁和寺御所庭園 京都市右京区 ●御室(サクラ) - 仁和寺 京都市右京区 仁和寺は光孝天皇の勅願で886年(仁和2)に建て始められていましたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御。遺志を継いだ宇多天皇によって、888年(仁和4)に落成、「西山御願寺」と称されましたが、やがて年号をとって仁和寺と呼ばれるようになります。宇多天皇が出家後、伽藍の西南に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住んだ為、「御室(仁和寺)御所」との別称があります。その後も皇族や貴族の特別な保護を受け、歴代の門跡(住職)は、江戸時代が終わるまで皇室出身者が務める事となり、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していました。室町時代にはやや衰退し、応仁の乱によって伽藍は全焼、それから1世紀半もの間、現仁和寺の南にある双ヶ丘にて、僅かに堂舎を構えるのみとなります。寛永年間(1624年-1644年)に入り、徳川幕府により伽藍は復興されました。また、寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築される事となりました。 ●大覚寺御所跡 京都市右京区 真言宗大覚寺派の本山。876年(貞観18年)、嵯峨天皇の離宮嵯峨院を寺院に改め、歴代の天皇や皇族が住持された門跡寺院であり、嵯峨御所として知られる。境内にある宸殿(重文)は徳川2代将軍秀忠と浅井長政の三女であるお江の間に生まれた東福門院和子が女御御殿の宸殿として使用していたもので、狩野山楽筆の「牡丹図(重文)」や「紅梅図(重文)」などがあり、桃山金碧画の代表的作品として知られている。また、平安時代、弘法大師のすすめで疫病退散を願った大覚寺のご始祖である嵯峨天皇が一字三礼の誠をこめ、般若心経を写経浄書、弘法大師は嵯峨院持仏堂の五覚院で五大明王に祈願すると、たちまちのうちに疫病が治まったと伝えられる。このことから、嵯峨天皇をはじめ後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格の各天皇の宸筆・般若心経は、現在も勅封として大覚寺心経殿に奉安され、60年に一度しかご開封されない。そのため大覚寺は、般若心経写経の根本道場として、心経信仰が盛んに行われている。承暦元(1077)年12月 法勝寺八角九重塔模型(京都市蔵)白河(現左京区岡崎)に法勝寺が創建される。いわゆる「六勝寺」の初めで,これ以後,白河地域に多くの寺院・院御所が建てられた。4年後,法勝寺に高さ81メートル(推定)の八角九重塔が建立される。 応徳3(1086)年7月 鳥羽離宮模型白河上皇が鳥羽離宮を造営,周辺には寺院・院御所が建てられる。 応保元(1161)年4月 後白河上皇が鴨東の法住寺殿に移る。このころ,このすぐ北には平清盛の六波羅邸があり,一帯には平家一門が集住していた。 1156 平清盛、源義朝らが崇徳上皇の白河御所を攻める(保元の乱) 1159 藤原信頼、源義朝らが後白河上皇の三条烏丸御所を攻める(平治の乱) 治承元(1177)年4月 樋口富小路(現万寿寺通富小路附近)からの出火が大火災となり,市街や大内裏の多くが焼ける(太郎焼亡)。このとき焼失した大極殿は,以後再建されなかった。また翌年4月には七条東洞院から出火し,大規模な火災となった(次郎焼亡)。 治承4(1180)年6月 平家一門が福原(現神戸市)へ遷都をするが,11月に平安京に戻った。 養和元(1181)年 この年と翌年,飢饉により京中に餓死者が充満した(養和の大飢饉)。左京だけでも4万2千体以上の死体があったという。 寿永2(1183)年7月 平家一門の都落ちにあたり,六波羅と西八条にあった平家の邸宅を焼く。続いて11月には法住寺殿が焼失する。
鎌倉時代、南北朝時代
1205 明恵上人、高山寺再建 承久3年(1221年) 後鳥羽上皇、北条義時追討を命じる(承久の乱)幕府の京都支配機関として六波羅探題を設置 暦仁元(1238)年6月 鎌倉幕府が市中のほぼ東大宮通以東48か所に篝屋(かがりや)を設置し,夜間警備を強化した。 建長7(1255)年10月 亀山殿(現天龍寺)が造営され,以後,嵯峨野の開発が進んだ。
室町時代、安土桃山時代
●西芳寺庭園 奈良時代、行基の開創と伝えられる古刹で、暦応2年(1339年)に造園にすぐれた夢窓国師が復興した。 ●天龍寺庭園 京都市右京区 約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめている、日本最初の史跡・特別名勝指定1336 足利尊氏が光明天皇をたて(北朝)、後醍醐天皇が吉野に移り南北朝に分裂 暦応元年(1338年) 足利尊氏、征夷大将軍になる 1339 夢窓疎石、西芳寺再建 足利尊氏、天龍寺創建 1378 足利義満、北小路室町新第(花の御所)造営 ※この頃、北山文化が栄える
1397 足利義満、北山第(金閣寺)創建 1404 明使、足利義満に「日本国王之印」永楽勘合符を送る ※この頃、観阿弥・世阿弥父子などにより能が流行、水墨画、茶の湯、立花、猿楽などが盛んになる 正長元(1428)年9月 京都近郊の人々が徳政(債務破棄)を求め,京都の富裕な土倉・酒屋を襲撃した(正長の土一揆)。 1450 細川勝元、竜安寺創建 寛正元(1460)~2(1461)年 大飢饉がおこり(寛正の飢饉),京中の死者は約8万2千人にのぼったという。 1467 応仁の乱始まる(~1477年) 応仁・文明の乱がおこり,東軍は上京に堀(御構)を掘って防御し,西軍の西陣と対した。下京でも堀を巡らしていたため,この時期の京都は,一種の城塞都市のようになっていた。 ※この頃、東山文化が栄える 文明10(1478)年 蓮如が山科本願寺をつくり,その後寺内町(じないちょう)が形成されたが,天文元(1532)年8月に焼失した。 1482 足利義政、東山山荘(銀閣寺)造営開始 ※この頃「洛中洛外図屏風」が描かれ始める 1500 祇園会が下京町衆により復興 永正8(1511)年8月 細川澄元と細川高国らとが船岡山附近で戦う(船岡山合戦)。船岡山附近は,丹波方面から市街地に入る入口にあたっていた。 天文5(1536)年7月 比叡山を中心とする勢力と法華門徒とが戦い(天文法華の乱),法華門徒の多かった下京を中心に広い範囲で市街が荒廃した。 1550 キリスト教宣教師ザビエル入京 永禄11(1568) 織田信長、足利義昭を擁して入京東寺に陣を設ける 上京と下京の間に二条御所(旧二条城)を義昭のために造営する。 天正元(1573)年4月 織田信長、足利義昭を追放し、室町幕府が滅びる 織田信長に反抗的な姿勢を見せていた上京が焼打ちされた。
●鹿苑寺(金閣寺)庭園 ●慈照寺(銀閣寺)庭園 ●慈照寺(銀閣寺)旧境内 ●大仙院書院庭園 - 大徳寺塔頭 ●大徳寺方丈庭園 正和4年(1315)に、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、大燈国師)が紫草の茂る洛北の野原(紫野)に小庵「大徳」を結んだことにはじまり、花園天皇や後醍醐天皇の帰依を受け、勅願所として嘉暦元年(1326)に龍宝山大徳寺と命名されました。応仁の乱(1467)で荒廃しましたが、文明6年(1474)に、「一休さん」こと一休宗純が大徳寺第47世の住持となり再建。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うため総見院を建立し、その後、前田利家や細川忠興など、多くの戦国武将が塔頭を建立しました。 ●龍安寺方丈庭園 京都市右京区 宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。応仁の乱で全焼し、勝元の実子改元が復興に着手。その後、細川家の菩提寺として、豊臣秀吉や徳川家などから庇護を受けた。 寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。 ●妙心寺境内 京都市右京区 ●妙心寺庭園 京都市右京区 ●玉鳳院庭園 - 妙心寺 京都市右京区 ●桂春院庭園 - 妙心寺塔頭 京都市右京区 ●退蔵院庭園 - 妙心寺塔頭 京都市右京区 応永11年(1404)に波多野重通が無因宗因を開山として千本通松原あたりに創建、のちに妙心寺内に移築された。方丈の西側にある狩野元信の作庭と伝わる枯山水庭園は国の名勝及び史跡に指定されている。天正10(1582)年 明智光秀、信長を討つ(本能寺の変)続く山崎合戦で明智光秀も横死した結果,羽柴秀吉が頭角をあらわす。 ※この頃、豊臣秀吉による太閤検地始まる 天正11(1583)年6月 羽柴秀吉が大坂城に入り,大坂が政治の中心となったが,11月には妙顕寺城が築かれ,秀吉の京都支配の拠点となった。 1585 豊臣秀吉、関白になる ※この頃、桃山文化が栄える 天正15(1587)年 豊臣秀吉が内野に聚楽第造営 天正18(1590)年正月 三条大橋が建造された。東海道の整備により,ここが京の東の玄関口となり,京都を象徴する存在になった。 天正19(1591)年 豊臣秀吉、大坂から堀川六条に本願寺を現在地(現西本願寺)に移転 豊臣秀吉、御土居築造、寺町造成などの都市改造を実施 文禄 3(1594) 伏見城造営 文禄 4(1595)年7月 関白豊臣秀次の切腹にともない,聚楽第が破壊される。 慶長元(1596)年 慶長大地震伏見城を始め京都に甚大な被害 慶長2(1597)年5月 伏見城が山上に再建され,豊臣秀吉が入る。伏見には多くの大名屋敷が建てられ,城下町が形成された。 慶長5(1600)年8月 関ケ原合戦の前哨戦で伏見城が焼失した。
<p>安土桃山文化 ●両足院庭園 京都市東山区 桃山時代以降に作庭された複数の庭園 ●東海庵書院庭園 - 妙心寺 京都市右京区 ●退蔵院庭園 京都市右京区(妙心寺?) 文明16年(1484)の開創で、斎藤越前守利国の室利貞尼が、悟渓和尚を請じて建立した。妙心寺四派本庵の一つである。悟渓は尾張の人、雪江門下の高僧で、教を東海道にひろめ後に東海派の祖といわれた。書院庭園は西庭(史跡名勝)と南庭からなり、西庭は三神仙島一連の庭を枯山水で表現したもので東睦和尚が文化11年(1814)に作庭した。南庭は白砂を敷き大小7個の庭石を配置した特色ある庭園である。また、方丈の南にある庭は一面に白砂を敷き雨落ちの中に棗(なつめ)形の手水鉢を置いたのみの清淨感あふれる庭である。 ●本願寺大書院庭園 - 西本願寺 京都市下京区 ●本願寺境内 京都市下京区 ●本願寺大書院庭園 京都市下京区 秀吉の聚楽第から移築した豪華絢爛な庭で、中国の聖地を模した豪奢で大胆な枯山水庭園が、西本願寺の「虎渓の庭」。作庭は江戸時代初期とされ、御影堂を借景にしているのが特徴です。江戸時代
1603 徳川家康、征夷大将軍となり二条城を造営 出雲阿国、北野社で歌舞伎おどりを始める 慶長11(1606)年 角倉了以が大堰川を整備し,丹波との航路を開いた。 慶長12(1607)年 豊臣秀頼が北野天満宮の社殿を造営した。このころ,秀頼による寺社の復興がさかんに行われる。 慶長16(1611)年 角倉了以、高瀬川開削に着手、19年に完成し,京と伏見が舟運で直結された。 1615頃 東山一帯で京焼が始まる 寛文10(1670)年 鴨川の石堤(寛文新堤)が完成し,鴨東の四条附近に祇園外六町が開かれた。以後,鴨川沿いの新地開発が進んだ。 宝永5(1708)年3月 京都中心部のほとんどが焼失する大火災がおきた(宝永の大火)。復興の際,御所周辺の公家町が拡大・整備され,寺町通東側や鴨東二条などに新しい市街地が開かれた。 享保8(1723)年8月 稲葉正知が淀城主となる。以後,明治4年の廃藩置県まで稲葉氏が居城とした。 享保15(1730)年6月 西陣で火災があり西陣機業が大打撃を受けた(西陣焼け)。 天明8(1788)年 天明の大火がおこり、京都市街のほとんどが焼失。市街地のほとんどが焼失し,京都の歴史上最大の火災となった。 寛政2(1790)年11月 天明の大火で焼失した内裏(京都御所)が,平安時代の様式を模した復古様式で再建された。 天保元(1830)年7月 大地震がおこり,洛中洛外で死者約700人を出した。余震は翌年まで続いた。 文久3(1863)年 新設された京都守護職の屋敷が釜座下立売の町家を取り払って新設される。京都守護職は慶応3年に廃止され,跡地は現在の京都府庁になっている。 元治元(1864)年 長州藩と会津・桑名・薩摩などの諸藩の兵が戦い長州藩敗れる(蛤御門の変) この時の戦闘で起こった火災は、京都市街の3分の2を焼き払った(どんどん焼け) 1867 坂本竜馬と中岡慎太郎、近江屋で殺害される 徳川慶喜、二条城で政権返上(大政奉還) 明治元(1868)年 幕府軍と新政府軍が戦う(鳥羽・伏見の戦い)伏見・下鳥羽・淀で大規模な戦闘があり伏見の町が焼失する。 京都近郊の代官支配地を京都府の管轄とする
●旧二条離宮(二条城) ●二条城二之丸庭園 京都市中京区 ●金地院庭園 応永年間(1394~1428)足利義持が北山に創建、1605年(慶長10)崇伝により現在地に移築された。 方丈は重文で、狩野派による襖絵は有名。 茶室八窓席(重文)は、鶴亀の庭(特別名勝)枯山水庭園とともに小堀遠州作で名高い。 ●霊雲院庭園 - 妙心寺 京都市右京区 霊雲院は、臨済宗東福寺派の大本山、東福寺の塔頭寺院で、1390年に岐陽方秀が開創し、当初は不二庵と呼ばれていたそうです。寛永年間に熊本藩主細川忠利・光尚父子から贈られた遺愛石を須弥山に見立て、九山八海の庭の中央に配置しています。重森三玲氏が1970年に荒廃していた庭を復元しています。 ●桂春院庭園 京都市右京区 妙心寺塔頭。慶長年間(1596-1615)美濃の豪族石河壱岐守貞政が父の菩提を弔うため、桂南和尚を請じて創建した。庭園(名勝・史跡)は江戸時代の作庭で、方丈南庭、東庭、書院前庭の三つに分かれ、三様の趣きを持ち、飛び石伝いに続く。書院の東北隅に、藤村庸軒ゆかりの草庵風茶室「既白庵」がある。 ●岩倉具視幽棲旧宅 京都市左京区明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に明治天皇は東京に行幸され、そのまま東京にとどまりました。 明治3年(1870年)に西高瀬川が開削され,市街と桂川・淀川等を結ぶ航路が開かれた。 明治4年(1871年)に京都府参事槙村正直の殖産興業政策の一環として河原町御池に勧業場が開設される。鴨川西岸には,舎密局・織工場・療病院などの勧業・教育施設が建ち並んだ。 明治22年(1889年)に市制が施行されたことで京都市が成立しました。明治23年(1890年)には琵琶湖疏水が完成し、明治24年(1891年)に日本最初の水力発電所である蹴上水力発電所が完成し、明治28年(1895年)に日本最初の市街電車である京都電気鉄道が開業しました。
●円山公園 京都市東山区 明治19年(1886)開設の京都市最古の公園 ●琵琶湖疏水 滋賀県大津市・京都府京都市左京区・東山区・山科区昭和18年(1943年)に巨椋池の干拓事業が完成した。 昭和20年(1945年)の空襲で被害がありました。 昭和39年(1964年)に京都駅前に京都タワーが完成して現在に至ります。