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高知県高知市

高知県高知市の旅行で訪れた観光名所、高知城

高知市は、高知県の中央部に位置します。北部には四国山脈があり南部には土佐湾が広がる温暖で自然豊かな地域です。山内一豊が前領主長宗我部氏の大高坂山城を高知城に改城し、土佐藩城下町が整備されて発展しました。幕末には坂本龍馬や武市瑞山など多くの志士を輩出した土地でもあります。

面積
309.00km2
人口
321,247人(2022年10月1日)
市の木
センダン
市の花
トサミズキ
市の鳥
セグロセキレイ
地図

高知市を巡る歴史

高知市は細川京兆家が守護職として統治し、国人衆の長宗我部家が吸江庵の寺奉行として地盤を固めました。細川家の家督争いで土佐国の国人衆も争うようになり、やがて長宗我部氏が台頭して四国地方を統一するまでに成長しました。関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易されると山内氏が藩主となり、幕末には倒幕に大きな影響を与えました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

高知市の最古の人の営みは、高間原での旧石器時代の細石器となります。縄文時代には長浜チドノ遺跡などで土器片が出土したほか、縄文時代後期から県内屈指の規模を誇る西分増井遺跡群が縄文時代後期から造営されました。弥生時代には朝倉の城山遺跡や鴨部遺跡などが造営されています。

古墳時代、飛鳥時代

朝倉神社の御神体である赤鬼山を中心に有力な氏族が勢力を誇りました。赤鬼山の南麓には、南国市の小蓮古墳や明見彦山1号墳とともに高知県三大古墳の1つとされる朝倉古墳があります。横穴式石室が露出する朝倉古墳は、7世紀前半の築造と考えられています。

赤鬼山

高知県高知市の旅行や観光地、赤鬼山朝倉神社の御神体とされています

朝倉古墳

高知県高知市の旅行や観光地、朝倉古墳高知県三大古墳の1つとされます

7世紀中期になると、金谷川や東谷川などの扇状地に秦泉寺廃寺が築造されました。秦泉寺廃寺は古代寺院では県内最古級と言われ、有稜線素弁八葉蓮華文軒丸瓦などが出土しています。このほか古代寺院として、野田廃寺や大寺廃寺が築造されています。

奈良時代、平安時代

聖武天皇の命を受けた高僧行基は、神亀元年(724年)に文殊菩薩を謹刻して堂を結んで安置したことで竹林寺が創建しました。やがて竹林寺は荒廃しますが、大同年間(806~10年)に空海が滞在し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられます。延長8年(930年)に紀貫之は土佐国司として統治し、任期後の土佐から京までの道中を土佐日記として記しています。

鎌倉時代、南北朝時代

夢窓国師(夢窓疎石)は、鎌倉時代後期から室町時代にかけて活躍した禅の高僧です。後醍醐天皇や足利尊氏から帰依され、甲斐国恵林寺や京都の臨川寺や天龍寺を創建しています。天龍寺船による中国元との貿易を行い、その活動で得た財により天龍寺などが創建されています。

吸江庵跡

高知県高知市の旅行や観光地、吸江庵跡夢窓国師が開山しました

竹林寺庭園

高知県高知市の旅行や観光地、竹林寺庭園行基菩薩が開山した寺院です

文保2年(1318年)に土佐に来錫した夢窓国師は、五台山西麓に吸江庵を結びました。夢窓国師は造園にも造士が深く、竹林寺のほかに甲斐国恵林寺や鎌倉瑞泉寺に庭園を造営しています。吸江庵は、秦氏の末裔でのちに四国を統一していく長宗我部氏が寺奉行を務めました。

室町時代、安土桃山時代

室町幕府により、細川京兆家が土佐国守護を務めました。細川京兆家は管領を務めていたため、京に居住して土佐国は吉良氏、石川氏、横尾氏、大平氏などが守護代として統治していました。永享5年(1433年)に細川満益が守護代となると細川一族が守護代を世襲していき、細川家の支配下には本山氏、大平氏、山田氏、香宗我部氏、安芸氏、長宗我部氏などの国人衆がいました。

朝倉城跡

高知県高知市の旅行や観光地、朝倉城跡本山氏が築城した城です

長宗我部元親墓

高知県高知市の旅行や観光地、長宗我部元親墓四国を統一するほどに勢力を拡大しました

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、土佐守護代細川勝益が上洛したため、細川氏の支配力が低下しました。永正4年(1507年)に永正の錯乱で細川政元が暗殺されると、細川家の家督争いに影響されて土佐国でも争いが起こりました。長宗我部家は本山氏らから居城岡豊城が攻められ、長宗我部兼序は討死してこの国親も土佐国を追われました。吉良宣経は周防国から南村梅軒を迎えて仏教や朱子学などを普及しましたが、吉良氏はやがて本山氏に攻められて吉良氏は滅亡しています。南村梅軒の朱子学は、のちに谷時中が野中兼山らに伝えて土佐南学として発展しました。

南学発祥地

高知県高知市の旅行や観光地、南学発祥地南村梅軒が伝えた朱子学が発展しました

谷時中墓

高知県高知市の旅行や観光地、谷時中墓土佐藩の基礎を築いた野中兼山を指導しました

本山城主本山茂宗は土佐中央部に進出し、永禄3年(1560年)に長浜の戦いで長宗我部氏を破り浦戸城を奪いました。長宗我部国親が亡くなると、家督を継いだ長宗我部元親が永禄6年(1563年)に朝倉城を攻略し、やがて本山茂宗を服属させました。長宗我部元親は土佐国を制圧すると四国統一を目論みますが、豊臣秀吉の四国征伐で降伏して土佐国を安堵されました。長宗我部氏は、天正19年(1591年)に本山茂宗が築いた浦戸城を本拠としました。

江戸時代

関ケ原の戦いで西軍に与した長宗我部盛親は、徳川家康から改易されて山内一豊が土佐国を与えられました。山内一豊は長宗我部遺臣に対して威厳を示すため高知城の築城を始め、山内家家臣を上士として長宗我部遺臣との格差を図りました。2代藩主山内忠義は野中兼山を登用して藩政改革を進め、土佐藩の基盤を固めました。

土佐藩主山内家墓所

高知県高知市の旅行や観光地、土佐藩主山内家墓所山内一豊ら藩主の墓が置かれました

野中兼山の藩政改革により藩の財政は安定しました。貞享元年(1684年)に法蓮寺の住持日教は、法華経を3部書写し人びとが利益に預かることを願い法華経塔(五台山の経塔)を建立しました。宝暦9年(1759年)に土佐藩最初の藩校として教授館が設立され、のちに鹿持雅澄が教授館の写本係を務めました。やがて天明の大飢饉や天保の大飢饉で藩財政が傾いていくと、有能な下士を登用して藩政改革が行われました。

貞亨元年銘法華経塔(五台山の経塔)

高知県高知市の旅行や観光地、貞亨元年銘法華経塔(五台山の経塔)人びとの幸せを願い経典が治められました

鹿持雅澄邸跡

高知県高知市の旅行や観光地、鹿持雅澄邸跡藩校教授館の写本係となりました

13代藩主となる山内豊熈は、馬渕嘉平を登用して藩政改革を進めますが、上士からの反発により失敗して山内容堂の代に吉田東洋へと引き継がれました。この頃は全国的に尊王攘夷運動が盛んになり、武市半平太が土佐勤王党を設立して吉田東洋らを暗殺して尊王攘夷派を推し進めました。さらに坂本龍馬、中岡慎太郎、板垣退助らは倒幕に向けて時代を動かしていきました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により高知県となると、初代知事として林有造が就任しました。明治9年(1876年)から日曜市が開かれるようになり現在も続いています。明治22年(1889年)に市制の施行により高知市が成立すると、明治37年(1904年)には現存する日本最古の路面電車である土佐電気鉄道が開業しました。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)に高知大空襲により荒廃しますが、復興を遂げて現在に至ります。

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