アグアス・カリエンテス

アグアス・カリエンテスは温かい水を意味する温泉地で、マチュピチュ遺跡観光の起点となる町です。ハイラム・ビンガムがマチュピチュを発見し、日本人の野内与吉が町を開発しました。クスコから1日1本往復している観光列車ビスタドームで移動することができ、シャトルバスを利用して遺跡まで移動します。
概要
- 面積
- 5km2
- 標高
- 2,040m
- 人口
- 0.3万 (2017年)
- 地図
歴史
マチュピチュはインカ帝国を最盛期に導いた9代皇帝パチャクティが建造したとされます。スペイン征服後に密林に閉ざされましたが、1911年にアメリカ人歴史学者ハイラム・ビンガムが発見して世界に知られました。日本人の野内与吉はアグアス・カリエンテスを開発し、マチュピチュ観光の起点としてマチュピチュ村と呼ばれるようになりました。
マチュピチュ遺跡
マチュピチュは標高2450メートルの尾根につくられたインカ帝国の遺跡で、スペイン人に見つからずに密林に残されたため、失われた空中都市と呼ばれています。インカの言葉ケチュア語に文字が無いため詳しいことは分かりませんが、インカ帝国を最盛期に導いた9代皇帝パチャクティがマチュピチュを建造したと言われます。

マチュピチュ
スペインに征服されたインカの人びとは、マチュピチュで80年ほど生活したあとさらに奥地へと移り住んでマチュピチュは放棄されました。

マチュピチュ
スペイン征服後に密林に閉ざされましたが、1911年にアメリカ人歴史学者ハイラム・ビンガムが偶然発見して知られることになります。
マチュピチュの社会
およそ700人が生活したマチュピチュは、神殿や居住区画のほか総面積の約半分を占める斜面に段々畑アンデネスがつくられています。人びとはアンデネスで収穫し、神官は太陽神インティに祈りを捧げて平穏を祈りました。神官たちは祈りを捧げる儀式を行うだけでなく、医師のような活動を行うことで人びとの生活を支えました。

インカ道
首都クスコから南米各地に張り巡らされていた古道で、軍事活動や経済活動を支える目的で各方面の主要都市や宗教施設を結ぶよう整備されています。

インティ・プンク(太陽の門)
マチュピチュの入口にある門で、首都クスコまでインカ道が続きました。木製の扉がつけられていましたが、長い年月で朽ち果てて石組みの門だけが残されています。

アンデネス(段々畑)
斜面を巧みに利用したアンデネスは斜面が東側を向いています。ジャガイモやトウモロコシの食料調達だけでなく、洪水を防止して都市を保護する役目がありました。

水汲み場
マチュピチュには太陽の神殿から居住区にかけて16の水汲み場が設けられました。精巧な石組みの水路で、遥か遠くの山から水が引かれました。

インティワタナ(日時計)
中央の突起した石の角が東西南北を向いていることから、太陽暦を使用したインカの人びとが暦を読むための日時計として利用していたとされています。

古代のトイレ
部屋の片隅にある穴はマチュピチュで唯一設けられたトイレの跡で、王室がマチュピチュ訪問時に使用した部屋だと考えられています。
マチュピチュの神殿
インカ帝国は太陽神を崇拝する宗教を基盤としていました。太陽は万物の創造神ヴィラコチャの創造物であり、インカ皇帝は太陽の子であると考えられました。太陽をはじめとする自然の聖なるものをワカと呼び、インカではワカに対する儀礼が定期的に行われました。

主神殿
最も重要な宗教施設で、窪みには黄金の像が祀られていたと言われます。マチュピチュは断層が走るため、長年の地殻変動により一部が崩れています。

3つの窓の神殿
太陽が昇る東向きに3つの大きな窓が開いている神殿で、3つの窓は神が住む天上、現世人が住む地上、死者が住む冥界を現しているとされます。

コンドルの神殿
主神殿に最も近い自然石を巧みに利用した神殿で、コンドルが羽を広げた姿から名付けられました。地上と天界を結ぶ神聖な場所として特別な儀式が行われていました。

太陽の神殿
カーブを描く壁が採用された唯一の神殿で、ふたつの窓は夏至と冬至に太陽の光が差し込んで中心の聖なる石を照らす構造をしています。

太陽の石
高さ3メートル、幅7メートルの一枚岩で、神聖なエネルギーを発するとされる岩です。インカの人びとは山をアプスと呼び崇めたため山の形をしています。

生贄の台
祭壇として使用された岩で、生贄を捧げて祈りの儀式が執り行われました。神官が登る階段があり、生贄を縛るための輪が取り付けられています。

王の陵墓
この奥に豪華な副葬品に囲まれたミイラが安置されていたため王室の墓だと考えられましたが、王室のものかどうかは確認が取れていないようです。

採石場
マチュピチュの建設で使用された石材は敷地内で採集されていました。熱した石に水をかけて急速冷却することで石を柔らかくして加工していたようです。
ワイナピチュ
マチュピチュの後方にあるワイナピチュは、マチュピチュが老いた峰に対して若い峰という意味があります。およそ45分かけて急峻なインカ時代の石段とトンネルを抜けて山頂まで登ることができます。ワイナピチュには神官の住まいとみられる遺跡があり、マチュピチュの太陽の神殿に対して月の神殿が設けられました。

ワイナピチュのゲート
ワイナピチュは観光客の滑落者が相次いでいるようで、入場者と退場者を把握するために入口で記帳して入山することになります。

マチュピチュ
標高2705メートルのワイナピチュから眺めるマチュピチュは、コンドルが羽を広げて飛んでいるように見える壮大なものです。
野内与吉が開発したマチュピチュ村
1917年にペルーに移住した日本人の野内与吉は、人がほとんど住んでいない山麓に村をつくりました。この村はアグアス・カリエンテスと名付けられますが、のちにマチュピチュが見つかりその観光の起点として、マチュピチュ村と呼ばれるようになりました。1948年からマチュピチュ村の村長を務めた野内与吉は、村で初めてとなるホテル・ノウチを開業しました。マチュピチュ村にはアンデス古代文明の研究者でリマに天野博物館を建てる天野芳太郎らも訪れ、1985年に三笠宮殿下が訪問したときには娘のオルガが花束を贈呈しています。

マチュピチュ村
アグアス・カリエンテスはマチュピチュ村を通称としています。マチュピチュ遺跡までのバスの発着地点となり、マチュピチュ観光の拠点となりました。

マチュピチュ村
日本人の野内与吉が開発したウルバンバ川沿いの小さな村は、マチュピチュ遺跡への観光拠点として急速に発展し、今では多くの店舗が建ち並びます。