歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

モン・サン・ミッシェルとその湾

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

モン・サン・ミシェルは聖ミシェル(ミカエル)の山を意味します。聖オベールが大天使ミシェルからお告げを受けてモン・トンブに建造された修道院です。10世紀以降に増改築が繰り返されて要塞化し、監獄としても使用されました。モン・サン・ミシェルは、モン・サン・ミシェルとその湾として1979年に世界遺産に登録されています。

モン・サン・ミシェルの誕生

モン・サン・ミシェルはモン・トンブと呼ばれた小島にあります。モン・トンブはキリスト教が伝来する前から聖地として崇められていた。708年に聖ミシェル(ミカエル)はアヴランシュ村の司教オベールの前に3度姿を現し、モン・トンブに礼拝堂を造るように命じました。オベールはミシェルの命令を2回無視したため、3回目にはオベールの額に指を刺し込んで警告したため、額に穴が空いている肖像画が残されています。聖ミシェルの命令に従いオベールは司教座聖堂参事会を置き、モン・トンブに小さな礼拝堂を建ててキリスト教の布教に努めました。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

オベールとミシェル

アヴランシュ村の司教オベールは聖ミシェルからモン・トンブに礼拝堂を造るように命じてモン・サン・ミッシェルが誕生することになります。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

モン・サン・ミシェル

聖ミシェルのお告げにより建立された礼拝堂は重要な意味を持つようになり、モン・トンブの礼拝堂には多くの巡礼者が訪れるようになりました。

ベネディクト修道会

966年にノルマンディー公リチャード1世はベネディクト修道会の修道士たちにモン・サン・ミシェルを譲りました。修道士たちはモン・サン・ミシェルに定着してノルマンディー公の寄付により新しい教会と礼拝堂を建てましたが、遠くから訪れる多くの貴族や巡礼者を受け入れるには十分ではありませんでした。11世紀になるとノルマンディー公の支援を受けながら大修道院の建設が進められました。

大修道院の建設

新しい教会は岩山の山頂には収まらない広さで、岩山には十字交差の建物を建てて4つの地下聖堂からなる形が採用されました。そのうちの1つはノートルダム・スー・テール(地下のノートルダム)と呼ばれるもので、10世紀に建てられた前ロマネスク様式の礼拝堂に残されています。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

騎士の間

上部の建造物を支えている柱が並ぶ部屋です。王族や貴族の従者たちの部屋で、普段は修道士たちの仕事部屋として使われていました。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

修道士食堂

天井に木材を使用することで建物を軽くしています。ベネディクト会の戒律は非常に厳しく無言で食事していました。

被害を受けたモン・サン・ミッシェル

モン・サン・ミシェルは暴風雨や落雷による火災のほか戦争などで何度も被害を受けました。13世紀初期にノルマンディー公の子孫であるイングランド王ジョンがフランスに有していた領地を取り戻そうとしたため、モン・サン・ミシェルはフィリップ2世に与するブルトン人により大きな被害を受けました。ブルトン人は要塞化したモン・サン・ミシェルを攻め落とすことはできませんでしたが、撤退で村を焼き払う火がモン・サン・ミシェルを襲い修道院の大部分を焼き尽くしました。

モン・サン・ミッシェルの要塞化

ジョン王とフィリップ2世の戦争が終わると、フィリップ2世はモン・サン・ミシェルの復興に尽力します。教会の北側に新たにラ・メルヴェイユと呼ばれるゴシック様式の3階建ての建物を3つ再建することにしました。結果的に2つしか建造されませんでしたが、1つ目の建物は最下部で巡礼者を受け入れ、2階で貴族をもてなし、最上階で修道士たちが食堂を取りました。2つ目の建物は貯蔵庫、修道士の執務室があり中庭を備えた回廊が設けられました。3つ目の建造物は建てられませんでしたが、その代わりに麓の村を要塞化して修道院に容易に到達できないようにしています。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

ラ・メルヴェイユ

モンサンミッシェルの北面にあるゴシック様式の3階の建物で、1228年に完成した祈りと瞑想の空間です。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

城塞都市化

小島が城壁に囲まれるようになり、フランスとイングランドの百年戦争で街全体が要塞化されました。

百年戦争とモン・サン・ミシェル

モン・サン・ミシェルは、1337年から1453年に続いたフランスとイングランドの百年戦争で更に要塞化され、イングランドの攻撃を耐え抜いた陣地の一つとなりました。モン・サン・ミシェルは要塞化されたことで巡礼路に使用する道が限定され、修道院の直下にあるグラン・ドゥグレと呼ばれる長い大階段を上がることになりました。

モン・サン・ミッシェルの教会内陣は、百年戦争の最中である1421年に崩壊したため、百年戦争が終結してから高さ25メートルにそびえるゴシック様式の内陣が造られました。1776年に火災が発生して外陣に修復不可能な被害が発生したため、西側を取り壊して壁で塞いだため、外陣は建造当初よりも長さが短くなりました。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

ジャンヌ・ダルク

百年戦争の後半に現れ、オルレアン解放を達成して劣勢のフランス軍を救出しました。英雄としてサンピエール教会に像が置かれました。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

ジャンヌ・ダルク

オルレアン解放により正式にシャルル7世の即位を実現しましたが、ブルゴーニュ派に捕縛されたあとイギリス軍に売り渡され、ルーアンで火刑に処せられました。

刑務所としての使用から現在

15世紀以降モン・サン・ミシェルは、ルイ11世の下で要塞化され政治犯の留置場として使用され、フランス革命から1863年までは刑務所として使用されたため、陸から離れた海のバスティーユと呼ばれていました。1863年にナポレオン3世の統治下で刑務所では無くなり、1872年には第3共和制においてモン・サン・ミシェルの修復が行われました。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

ナポレオン3世

1873年にモン・サン・ミシェルは歴史的建造物に指定され、観光客を受け入れるようになりました。

フランス・マンシュのモン・サン・ミシェル

メール・プラール

ヴィクトル・プラールと結婚したアンヌ・ブティオは宿屋を開いて、名物となるオムレツで旅行客をもてなすようになりました。