バンコク
バンコクはタイの首都で、1782年にトンブリー王朝からチャクリー王朝に移る際に遷都したことに始まります。チャオプラヤ川のデルタ地帯に豪華な装飾を施した寺院や活気に満ちた街が形成しました。ぶチャオプラヤ川を中心に運河網が張り巡らされ、たくさんの船が往来しています。
概要
- 面積
- 1,569km2
- 標高
- 1.5m
- 人口
- 14,565,520人
- 地図
歴史
1767年にアユタヤ王朝が滅亡すると、トンブリー朝のタークシンがビルマ人を撃退しました。タークシンの部下チャクリはラーマ1世として現在に続くラタナコーシン朝を建国し、1782年にチャオプラヤ川のデルタ地帯に町を形成して首都としました。
ラタナコーシン朝
アユタヤ王朝が1767年にビルマ・コンバウン朝の侵攻により滅亡すると、1768年にトンブリー朝のタークシンがビルマ人の撃退に成功しますが、タークシンは仏教勢力を抑圧する行動を起こしたため、1782年に部下のチャクリがラーマ1世としてラタナコーシン朝を建国しました。
バンコク市街
タイの首都となり、チャオプラヤー川を中心に運河網が張り巡らされています。
王宮とワット・プラケオ
タークシンの部下チャクリがラーマ1世としてラタナコーシン朝を建国し、バンコクに王宮を置いて首都としました。
王宮(チャクリー・マハ・プラサート宮殿)
王宮はタイ国王の公的な居住地で、国内すべての宮殿の中で最も重要とされます。ラーマ5世の命により建造され1882年に完成しました。実際にはラーマ9世以降の国王は居住しておらず、日常的な公務も行われていません。戴冠式、上級王族の葬儀、国王誕生日謁見の儀などの重要式典の際に使用されています。
チャクリー・マハ・プラサート宮殿
白壁に囲まれた20万平方メートルの敷地には歴代の王が建造、改築した建造物が並び、国の重要な式典で使用されます。
チャクリー・マハ・プラサート宮殿
宮殿はタイと西洋様式が融合しており、戴冠式、上級王族の葬儀、国王誕生日謁見の儀などの重要式典の際に使用されています。
ワット・プラケオ
王宮の敷地内にあるワット・プラケオは、ワット・ポー、ワット・アルンと並ぶバンコク三大寺院の一つでタイでは最も格式の高い王室寺院です。現在の王朝であるラタナコーシン朝の護国寺として1782年にラーマ1世が建立しました。
ワット・プラケオ
ラタナコーシン朝の護国寺で、エメラルド仏を祀るためエメラルド寺院とも呼ばれます。敷地内の黄金の仏塔には仏陀の遺骨が納められています。
エメラルド仏
季節により年3回衣替えされ、毎年4月のタイ正月ソンクラーンにはエメラルド仏を参拝する人が多く訪れます。
ワット・ポー
ワット・ポーは、1788年にラーマ1世により建設されたバンコク最古にして最大面積を誇る王宮寺院です。ポーとは悟りを意味するタイ語で、ラーマ1世が僧侶が学ぶ寺院として創建し、ラーマ3世が改修を加えています。
ワット・ポー
バンコク最古にして最大面積を誇る王宮寺院であり、東洋医学に基づくタイ古式マッサージの総本山でもあります。
涅槃像
全長15メートルある仏像で、足裏には108の図が螺鈿(らでん)細工という貝殻を磨いて模様にはめ込む技巧で飾られています。
タイ王国の成立
ラタナコーシン朝は第一次世界大戦後で戦勝国となりますが、国内では国王による絶対王政の政治を立憲政治に改めるべきとの知識人が現れました。フランス留学中にパリで秘密結社人民党を結成した軍人のピブンや官僚のプリーディーらは1929年の世界恐慌で疲弊したタイで立憲王政を樹立する行動を起こし、1932年に国王ラーマ7世もそれを受け入れ立憲国家になり、1939年に国名をシャムからタイに変更しました。
シリラート法医学博物館
シリラート法医学博物館は、タイ現代解剖学の父と言われるコンドン教授の研究室を公開した博物館です。シリラート病院にある博物館で、病気や事故で亡くなり法医学鑑定された遺体を医学的資料として保存し、人体の本物の標本や奇形児のホルマリン漬けなどが展示されています。
シリラート法医学博物館
死体博物館と呼ばれるほど展示物が結構きついので注意が必要です。館内は写真撮影が禁止されています。