歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

デリー

インド・デリーのフマユーン廟

デリーはインド北部に位置し、インドの首都特別地域として巨大な大都市圏を形成しています。ニューデリーとオールドデリーに分かれており、17世紀初頭からオールドデリーが建造されました。1911年に英領インドの首都がコルカタからデリーに移されことになり、イギリス人建築家ラチェンズによりニューデリーの建設が始まり1931年に完成しました。

概要

面積
1,484km2
標高
239m
人口
1898万 (2012年)
地図

歴史

デリーはラージプート時代のトーマラ朝からデリー=スルタン朝やムガル帝国などが首都を置いて発展しました。ムガル帝国シャー・ジャハーンが建設したシャージャハーナバードはオールドデリーと呼ばれ、イギリス植民地時代に建設した都市がニューデリーになりました。

アーリア人とカースト制

紀元前1500年頃にインドにアーリア人が侵入して、紀元前1000年頃にはガンジス川流域に住むようになりました。アーリア人はバラモン教を基盤とし、バラモンを頂点とする身分制度ヴァルナを生み出し、現在も根強いカースト制度に基づいた統治を行いました。紀元前600年頃にガンジス川流域の16大国は覇権を争うようになると、バラモンを頂点とするバラモン教に不満を持つようになり、この頃からカースト制を否定したジャイナ教や仏教が広まりました。

インド初の統一国家

紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がインドに勢力を伸ばしました。マケドニア軍はわずか2年でインドから撤退しますが、これを契機にインドでひとつの王朝を形成する動きが進みました。紀元前317年頃にチャンドラグプタがマウリヤ朝を建国し、磨崖碑や仏塔の建立や仏典の結集など仏教を保護したアショカ王の時代に最盛期を迎えました。

ラージプート時代

紀元前2世紀にマウリヤ朝が滅亡して小国が乱立する時代を迎えますが、320年頃にチャンドラグプタ1世が小国を制圧してグプタ朝を成立しました。グプタ朝ではゼロの概念の誕生など学問が発展し、4世紀頃にバラモン教と民間信仰が融合してヒンドゥー教が生まれました。590年にグプタ朝が滅亡してハルシャ・ヴァルダナ朝が建国しますが、バクティ運動でヒンドゥー教が浸透したこともあり、647年に1代で滅んでヒンドゥー教を基盤とする小国が乱立しました。この時代をラージプート時代と呼び、736年にトーマラ朝がデリー周辺を支配して12世紀にチャーハマーナ朝がデリーを都としますが、1192年にイスラム国ゴール朝のムハンマドとの二度にわたるタラーインの戦いで敗れてチャーハマーナ朝は滅亡しました。

インド・デリーのヒンドゥーの鉄柱

ヒンドゥーの鉄柱

グプタ朝チャンドラグプタ2世を記念して建てられた高さ7メートルの鉄柱です。4世紀に鋳造された鉄柱ですが、高い治金技術でひとつも錆びていません。

デリー=スルタン朝とイスラム教

ゴール朝ムハンマドは、将軍アイバクをデリーに駐屯させて北インドを統治させました。これによりイスラム教が流入し、ヒンドゥー教と融合してシク教が生まれています。1206年にムハンマドが暗殺されたことを受け、アイバクは独立して奴隷王朝を建国しました。やがてハルジー朝からトゥグルク朝と続き、1398年にデリーはティムールに一時占領されますが、サイイド朝からローディ朝へと続きました。

インド・デリーのクトゥブ・ミナール

クトゥブ・ミナール

クトゥブウッディーン・アイバクが、ヒンデゥー教徒に対する勝利を記念した石塔です。インドで最も高い石塔で塔の壁にコーランの章句が綺麗に彫刻されています。

インド・デリーのアライ・ダルワーザ

アライ・ダルワーザ

ハルジー朝アラー・アッディーンが1311年に建てたモスクへの門で、初期のイスラム建築のなかでも均整のとれた美しい建物です。

インド・デリーのアライ・ミナール

アライ・ミナール

ハルジー朝アラー・アッディーンがクトゥブ・ミナールに優る第2の塔を建ててイスラムの勝利を祝おうとしましたが、1316年に暗殺されたため未完のまま基部だけが残されています。

ムガル帝国の建国

1526年にバーブルがパーニーパットの戦いでローディ朝を破り、デリーを都としたムガル帝国を建国しました。2代皇帝フマーユーンはアフガン勢力のシェール・シャーにデリーを追われてイランに逃げました。シェール=シャーはスール朝が成立しますが、1555年にサファヴィー朝の支援を受けたフマユーンがデリーを奪還してスール朝は滅亡しました。3代皇帝アクバルは官僚制度サンサブダール制を導入したほか、非イスラムの人頭税シズヤを廃止してヒンドゥー教との融和政策をとり、1565年にデリーからアグラに遷都しました。

インド・デリーのイサ・カーン廟

イサ・カーン廟

1547年に建てられた八角形のイサ・カーンの霊廟です。イサ・カーンはアフガニスタン系スール朝の貴族で、デリーに侵攻してムガル帝国と戦いました。

インド・デリーのフマユーン廟

フマユーン廟

1565年に2代皇帝フマユーンの王妃ハミーダ・ベーグムが建てた霊廟で、庭園霊廟と言われる造りで、庭園も建物も左右対称の庭園の中の廟といわれます。

インド・デリーのフマユーンの棺

フマユーンの棺

スール朝を滅ぼしてムガル帝国を再建したフマユーンは、翌年に図書館の階段から転落して亡くなりました。フマユーンの棺は中央の偽装の棺の地下にあります。

ムガル帝国の新都建設

5代皇帝シャー・ジャハーンは、度重なる戦費を賄うためマンサブダール制を改革して財政の建て直しを図りました。1648年に現在のオールドデリーにあたるシャージャハーナバードを建造してアグラから遷都しています。シャー・ジャハーンは愛妃ムムターズ=マハルの霊廟タージ・マハルを建造しますが、これにより財政が悪化して息子のアウラングゼーブに廃位させられて幽閉されました。

インド・デリーのレッド・フォート

レッド・フォート

5代皇帝シャー・ジャハーンがアーグラからデリーに遷都するため、1639年から1648年にかけて築城しました。赤い砂岩の城壁が特徴でラール・キラーとも呼ばれます。

インド・デリーのレッド・フォートのチャッタ・チャウク

チャッタ・チャウク

レッド・フォートに整備されたアーケード付き城内商店街で、かつて宮殿に仕える女官たちが買い物をする場所で正門ラホール門と中門ナッカル・カーナの間にありました。

インド・デリーのレッド・フォートのナッカル・カーナ

ナッカル・カーナ

奏楽殿とも呼ばれています。1日に5回の定刻と来客を迎える時に上階の楽隊が楽器を打ち鳴らし、休日には終日にわたり音楽を演奏したとも言われます。

インド・デリーのレッド・フォートのディーワーネ・ハース

ディーワーネ・ハース

内謁殿とも呼ばれ、高位の廷臣のみがここで皇帝に謁見できました。すべて白大理石で仕上げられ、美しい装飾が施されています。

ムガル帝国の衰退

6代アウラングゼーブは度重なる戦争で領土を拡張するも財政難に陥り、1679年に非イスラムに課していた人頭税ジズヤを復活させるなど財政の建て直しを図りました。シズヤ復活などのイスラム中心の政策は、ヒンドゥー教徒やシク教徒などの反発を招くことになります。1707年にアウラングゼーブが死去すると後継者争いや各地の反乱が起こり、1742年にサアーダト=ハーンが独立した動きを見せてアワド王国といわれました。

イギリスの侵攻

18世紀にインド南部でイギリスとフランスが東インド会社を設立すると、1757年のプラッシーの戦いでイギリス東インド会社がフランスを破り主導権を握るようになりました。1764年のブクサールの戦いで東インド会社がムガル帝国やベンガル太守などの連合軍を破り、ベンガルなどの地税徴収権ディーワーニーがイギリスに移りました。ムガル帝国は徴税権を失うことでイギリスから年金を受給する存在となり、イギリスは地主層から税を取るザミンダーリー制を導入してインドを植民地化していきました。

インド大反乱(セポイの乱)

1857年に東インド会社のインド人傭兵が反乱を起こし、北インド全域に広がる大反乱となりました。セポイの乱と呼ばれるインド大反乱では、反乱軍はムガル皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して新政権を宣言しました。イギリスのインド総督カニングは反乱を鎮圧してバハードゥル=シャー2世はビルマに流刑となりムガル帝国は滅亡しました。インドは東インド会社からイギリスの直接統治となり、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝の称号を得ました。

インド・デリーのレッド・フォートの中央広場

レッド・フォート中央広場

インド大反乱のときにイギリス軍の駐屯地として接収され、兵舎などが建設されたためレッド・フォートは大きく造り替えられて一部のみ建物が残されました。

インド・デリーのレッド・フォート

玉座

公謁殿と呼ばれるムガル様式のディワーネ・アームは、すべて金で彩色されていました。ムガル皇帝の玉座は保護ガラスで厳重に管理されています。

イギリスからの独立

イギリスはインド統治の首都としてニューデリーを建設し、1911年にカルカッタから遷都しました。第一次世界大戦が始まるとイギリスはインドに戦勝の見返りとして自治を約束し、多くのインド兵がヨーロッパ戦線に動員されました。1919年にイギリスがローラット法を制定してインド民衆運動の取り締まりを強化し、これに抗議したインド人を虐殺するアムリットサール事件が起こりました。ガンディーは非暴力、不服従の抵抗運動をはじめ、1930年の第2次非暴力・不服従運動で塩の行進を行いました。1947年に第二次世界大戦でイギリスは疲弊してインドを統治する力はありませんでした。イギリスはインドから撤退する形で独立を認め、ヒンドゥー教徒のインドとイスラム教徒のパキスタンが分離独立しました。

インド・デリーのインド門

インド門

1929年に第1次世界大戦の戦死者を弔うために建てられました。インド門を東端として東西に伸びるラージパト通りは西端の大統領官邸と結ばれています。