歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

アーグラー

インド・アーグラーのタージ・マハル

アーグラはインド北部ウッタル・プラデシュ州にある都市で、ガンジス川最大の支流であるヤムナー川沿いにあります。ムガル帝国アクバルが首都を置いたことで、周辺地域における政治、経済、文化の中心となりました。

概要

面積
121km2
標高
170m
人口
158.6万 (2011年)
地図

歴史

アーグラーはアクバル大帝がアーグラー城を建設したことに始まります。アーグラー城は歴代ムガル帝国が拡張して巨城となりましたが、ヒンドゥー教国との争いで略奪されてイギリス植民地時代のアーグラー城は何も残されていませんでした。

アーリア人とカースト制

紀元前1500年頃にインドにアーリア人が侵入して、紀元前1000年頃にはガンジス川流域に住むようになりました。アーリア人はバラモン教を基盤とし、バラモンを頂点とする身分制度ヴァルナを生み出し、現在も根強いカースト制度に基づいた統治を行いました。紀元前600年頃にガンジス川流域の16大国は覇権を争うようになると、バラモンを頂点とするバラモン教に不満を持つようになり、この頃からカースト制を否定したジャイナ教や仏教が広まりました。

インド初の統一国家

紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がインドに勢力を伸ばしました。マケドニア軍はわずか2年でインドから撤退しますが、これを契機にインドでひとつの王朝を形成する動きが進みました。紀元前317年頃にチャンドラグプタがマウリヤ朝を建国し、磨崖碑や仏塔を建立するなど仏教を保護したアショカ王の時代に最盛期を迎えました。

ラージプート時代

紀元前2世紀にマウリヤ朝が滅亡して小国が乱立する時代を迎えますが、320年頃にチャンドラグプタ1世が小国を制圧してグプタ朝を成立しました。グプタ朝ではゼロの概念の誕生など学問が発展し、4世紀頃にバラモン教と民間信仰が融合してヒンドゥー教が生まれました。590年にグプタ朝が滅亡してハルシャ・ヴァルダナ朝が建国しますが、バクティ運動でヒンドゥー教が浸透したこともあり、647年に1代で滅んでヒンドゥー教を基盤とする小国が乱立しました。この時代をラージプート時代と呼びます。

デリー=スルタン朝とイスラム教

ゴール朝ムハンマドは、将軍アイバクをデリーに駐屯させて北インドを統治させました。これによりイスラム教が流入し、ヒンドゥー教と融合してシク教が生まれています。1206年にムハンマドが暗殺されたことを受け、アイバクは独立して奴隷王朝を建国しました。やがてハルジー朝、トゥグルク朝からサイイド朝と続きました。1451年にアフガン系のバフロール・ロディーがロディ―朝を建国すると、1475年頃にラージャ・バダル・シングがアーグラの前身となる町を建造して16世紀初頭に首都としました。

ムガル帝国のアクバル大帝

1526年にバーブルがパーニーパットの戦いでローディ朝を破り、デリーを都としたムガル帝国が建国しました。3代アクバルはイスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和に尽力して、1564年に非イスラム教徒に課していた人頭税シズヤを廃止しました。1565年にアーグラーを建設すると、1571年にファテープル・シークリーを造営してデリーから遷都しますが、1585年に一時的にラホールに遷都されました。

インド・アーグラのファテープル・シークリー

ファテープル・シークリー

1571年から1573年にかけて、3代皇帝アクバルが王子サリームの誕生を記念して建てた勝利の都で、気候が悪く水不足に悩まされたため14年で放棄されました。

インド・アーグラのファテープル・シークリー・ディーワーネ・ハース

ディーワーネ・ハース

ファテープル・シークリーの内謁殿と呼ばれる部屋では、彫刻が施された中央の台座に皇帝アクバルが座り、臣下の議論を聞いて政治を行いました。

インド・アーグラーのアーグラー城塞

アーグラー城塞

3代皇帝アクバルがアーグラーへ遷都するため、1564年に築城をはじめ1573年に完成しました。5代シャー・ジャハーンと6代アウラングゼーブが大幅な改築を行いました。

インド・アーグラーのアーグラー城塞・ハース・マハル

ハース・マハル

全盛期には金銀財宝で煌びやかな部屋でした。白い大理石の透かし彫りはアラベスク様式で細部に至るまで装飾が施され、この技術はタージマハルに受け継がれました。

インド・アーグラーのジャマー・マスジット

ジャマー・マスジット

1571年に完成した世界を見渡すという意味があるモスクです。上部は小塔チャトリが並び、インドにおけるイスラム建築の特徴をよく表しています。

ジャハーンギール

4代皇帝ジャハーンギールは宰相ミールザー・ギヤース・ベグの娘ヌール・ジャハーンを娶りました。ヌール・ジャハーンはペルシア系の美しく聡明な女性で、ジャハーンギールが健康を損ねると皇帝に代わり国政に携わりました。

インド・アーグラーのアーグラー城塞のジャハーンギール宮殿

ジャハーンギール宮殿

1570年に3代皇帝アクバルが4代ジャハーンギールのために建てた宮殿です。左右対称のファサード上部の両端にある小塔チャトリが特徴的なイスラム建築です。

インド・アーグラーのイティマド・ウッダウラー廟

イティマド・ウッダウラー廟

4代皇帝ジャハーンギールの皇妃ヌール・ジャハーンが、1622~1628年にかけて彼女の父ミルザ・ギヤース・ベグと母のために建設した霊廟です。

シャー・ジャハーンとアウラングゼーブ

6代皇帝アウラングゼーブは度重なる戦争で領土を拡張するも財政難に陥り、1679年に非イスラムに課していた人頭税ジズヤを復活させるなど財政の建て直しを図りました。シズヤ復活などのイスラム中心の政策は、ヒンドゥー教徒やシク教徒などの反発を招き、1687年にラージャルームの率いるジャート農民が3代皇帝アクバルの遺骨を焼き捨う事件を起こしました。1674年にデカン高原に建国したマラーター王国は、ヒンドゥー教国としてムガル帝国に激しく抵抗し、1707年にアーグラー城を占拠して略奪を繰り返しました。

インド・アーグラーのアーグラー城塞・ディワーネ・カース

ディワーネ・カース

5代皇帝シャー・ジャハーンがアーグラー城内に建てた謁見の間で、装飾された檀上に皇帝が座り市民の訴えを聞いて裁きを下していました。

インド・アーグラーのタージ・マハル

タージ・マハル

1653年に5代皇帝シャー・ジャハーンが建築した愛妃ムムターズ・マハルの霊廟で、白亜の霊廟はインド・イスラム建築の最高傑作と言われます。

インド・アーグラーのムサンマン・ブルジュ

ムサンマン・ブルジュ

5代皇帝シャー・ジャハーンはタージ・マハルの建造に多額の予算を使い込んで、息子の6代皇帝アウラングゼーブによりアーグラ城塞・囚われの塔に幽閉されました。

インド大反乱(セポイの乱)

18世紀にイギリスが設立した東インド会社は、1764年のブクサールの戦いでムガル皇帝やベンガル太守などの連合軍を破りました。イギリスはベンガルなどの地税徴収権ディーワーニーを獲得し、地主層から税を取るザミンダーリー制を導入してインドを植民地化していきました。 1857年に東インド会社のインド人傭兵が反乱を起こし、北インド全域に広がる大反乱となりました。反乱軍はムガル皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して新政権を宣言しますが、イギリスのインド総督カニングが反乱を鎮圧してムガル帝国は滅亡しました。イギリスによるインド統治は、1947年に独立するまで続けられました。

インド・アーグラーのジョン・ラッセル・コルヴィンの墓

ジョン・ラッセル・コルヴィンの墓

インド北西部の副総督ジョン・ラッセル・コルヴィンは、1857年のインド大反乱に巻き込まれてアーグラで亡くなり、アーグラー城に墓所が置かれました。