ラージギル

ラージギルは、古代インドのマガダ国の首都でガンジス川中流域に位置します。ラージは王、ギル(グリハ)は住むところを意味します。釈尊が説法した地のひとつで、外輪山に囲まれた盆地の中にある都市遺跡では釈尊の説法を纏める結集が行われ、ナーランダ僧院は古代仏教教学の中心地となりました。
概要
- 面積
- 不明
- 標高
- 73m
- 人口
- 4.159万 (2011年)
- 地図
歴史
ガンジス川流域に誕生したマガダ国は、16大国の中で大きな勢力を誇りました。マガダ国ビンビサーラ王は釈尊に帰依し、仏教を保護して精舎を建立しました。釈尊入滅後に初めて経典をまとめた第一結集が行われ、グプタ朝時代には仏教教学の中心地となるナーランダ僧院が建設され、チベットやミャンマーのほか中国などに仏教が伝えられました。
アーリア人とカースト制
紀元前1500年頃にインドにアーリア人が侵入して、紀元前1000年頃にはガンジス川流域に住むようになりました。アーリア人はバラモン教を基盤とし、バラモンを頂点とする身分制度ヴァルナを生み出し、現在も根強いカースト制度に基づいた統治を行いました。
マガダ国の繁栄
紀元前600年頃にガンジス川流域の16大国が覇権を争うようになると、バラモンを頂点とするバラモン教に不満を持つようになりました。マガダ国シャイシュナーガ王朝5代ビンビサーラは、王舎城と呼ばれる首都を中心に仏教やジャイナ教を保護してガンジス川流域の平原を支配しました。ビンビサーラを幽閉して即位した6代アジャータシャトルは、コーサラ国を制圧してベナレスなどを併合しました。紀元前4世紀中頃のマガダ国ナンダ朝は強大な軍隊を持ち、貨幣経済が浸透してビルマやセイロンと交易を行いました。

ラージギルの城壁跡
シャイシュナーガ王朝ビンビサーラ王は王舎城をマガダ国の王都としていました。マガダ国は巨大な軍事力と経済力を有している大きな国家でした。

ジーバカのマンゴー園
ジーバカはマガダ国の名医でカースト制の身分によらず多くの人びとの治療行いました。ここには医療機関があり、当時の医療器具や手術用具と思われる遺物が出土しています。
釈尊とビンビサーラ王
ビンビサーラ王は悟りを開く前の釈尊のただならない雰囲気を感じて、臣下に釈尊の居所を確認させました。臣下からの報告を受けたビンビサーラ王は釈尊が修行していた岩窟に赴き、マガダ国の軍事指揮官として地位と財産を与えることを約束しますが、釈尊はこれを固辞して立ち去られました。ビンビサーラ王は釈尊に対して、悟りを開いた暁には再び王舎城を訪れるように頼み、釈尊に仕えること、釈尊の説法を授かること、説法の内容を理解することを希望しました。
カッサパ三兄弟の帰依
マガダ国にはカッサパ三兄弟と呼ばれる火を操る高名なバラモンがいました。釈尊は長男ウルベーラに対して、火を吐く大蛇が棲んでいる聖火堂に泊めて欲しいと頼みました。ウルベーラは何度も釈尊に忠告しますが、釈尊は忠告を制止して聖火堂で一夜を過ごしました。釈尊は神通力で大蛇を小さな蛇に変えて無事に朝を迎えましたが、ウルベーラは釈尊の神通力を信じませんでした。そこで釈尊は川を徒歩で渡るなど350もの奇跡を見せ、ついにウルベーラは釈尊の弟子となり、次男ナディ、三男ガヤとその弟子数千人も釈尊に帰依しました。マガダ国王ビンビサーラはカッサパ三兄弟が釈尊に帰依したことを知り、12万の民衆と共に教えを乞うことを決め、釈尊一同が過ごす安住の地として竹林園に精舎を築きました。
ビンビサーラ王の幽閉
世継ぎを授からないビンビサーラ王は、バラモンから山中にいる仙人の生まれ変わりとして王子を授かると予言され、待ちきれないビンビサーラ王は刺客を派遣して仙人を殺害しました。やがて妻イダイケは懐妊しますが、バラモンは殺された仙人の恨みで仇となるだろうと予言しました。こうして生まれたアジャンタシャトルは父母とともに釈尊に帰依しますが、釈尊に敵対するディーバダッタから出生の秘密を伝えられ、王位剥奪と自身の教団長を吹き込まれました。アジャンタシャトルはビンビサーラ王を幽閉して食事を与えないため、妻イダイケは体にバターを塗りビンビサーラ王の命を繋ぎ続けましたが、これに気付いたアジャンタシャトルはイダイケの面会を禁じました。やがてビンビサーラ王は亡くなりアジャンタシャトルは王位を継承しますが、釈尊の説法で自らの罪に気づいたアジャンタシャトルは釈尊に帰依しました。

竹林精舎
仏教に帰依したビンビサーラ王が安住の地として釈尊に寄進した精舎で、仏教教団の最初の拠点となります。広い陰をつくる竹が自生していたため名付けられました。

竹林精舎カランダ池
カランダ長者が町の喧騒が気にならず托鉢に不便でない霊鷹山の麓の土地を寄贈し、ビンビサーラ王が伽藍を建立しました。カランダ池は僧侶が沐浴を行いました。

ビンビサーラ王の道
ビンビサーラ王が釈尊の説法を聞くために築造した道で、休憩するときに馬車を降りた下乗の舎利塔の基壇があり、ここに侍従を残して自身で釈尊の説法を聞きに行きました。

グリッダクータ(霊鷲山)芳香堂
釈尊が晩年の長い時間を過ごし、弟子たちに法華経など数多くの法を説きました。やがてジャングルに埋もれましたが、明治26年(1903年)に大谷光瑞が発見しました。

舎利弗の洞窟
舎利弗は釈尊十大弟子のひとりで智慧第一と称されました。隣村に住んでいた目蓮とともにサンジャヤ教団から釈尊の弟子となり、二大弟子と呼ばれるまでになりました。

阿難陀の洞窟
阿難陀は釈尊十大弟子のひとりで多聞第一と称されました。釈尊の説法を特に多く聞き、王舎城で仏典の第一結集において重要な役割を果たしました。

ビンビサーラ王の牢獄
釈尊を帰依したビンビサーラでしたが、自ら犯した罪で息子に幽閉されて最期を迎えました。釈尊が悲痛にあえぐ妻イダイケに説いた教えが観無量寿経になります。

舎利弗の仏塔
ナーランダは釈尊の十大弟子の舎利弗と目蓮の出身地で、智慧第一と名高い舎利弗は釈尊に先立ちこの地で亡くなりました。舎利弗入滅の地には仏塔が建立されました。
マウリヤ朝
紀元前4世紀末にマケドニアのアレクサンドロス大王が侵攻しました。ナンダ朝は象部隊を駆使して抵抗しましたが、戦いに疲弊したナンダ朝はチャンドラグプタに倒されて滅亡し、紀元前317年にマウリヤ朝が成立しました。マウリヤ朝は磨崖碑や仏塔の建立や仏典の結集など仏教を保護したアショカ王の時代に最盛期を迎えました。
グプタ朝
紀元前2世紀にマウリヤ朝が滅亡して小国が乱立する時代を迎えますが、320年頃にチャンドラグプタ1世が小国を制圧してグプタ朝を成立しました。グプタ朝ではゼロの概念の誕生など学問が発展し、4世紀頃にバラモン教と民間信仰が融合してヒンドゥー教が生まれました。590年にグプタ朝が滅亡してハルシャ・ヴァルダナ朝が建国しますが、バクティ運動でヒンドゥー教が浸透したこともあり1代で滅び、ヒンドゥー教を基盤とする小国が支配することになります。
ナーランダー僧院
5世紀にグプタ朝クマーラグプタ1世がナーランダー僧院を建造しました。ナーランダとは釈尊の智慧を与えるという意味で、7世紀の玄奘三蔵は惜しみなく与える施無厭と翻訳しています。玄奘三蔵は西遊記のモデルとなる人物で、6年間留学して多くの教典を中国に持ち帰り漢訳しました。玄奘三蔵の記録によれば、ナーランダー僧院の学僧は1万人以上で1500人以上の教師がいたとされます。ナーランダー僧院で学んだ僧侶が各地で指導者となり、チベット仏教やミャンマー仏教のほか中国仏教などに発展して広められました。

ナーランダ僧院跡
グプタ朝クマーラグプタ1世により建造された仏教教学の中心で、9階建ての図書館、6つの寺院、11の僧院がある世界最大の教育施設でした。

ナーランダ僧院跡
ナーランダ僧院は南北10キロメートル、東西5キロメートルの50平方キロメートルの敷地があり、高い塀に囲まれて1つの門から出入りしていました。
イスラム勢力の侵攻
750年頃にガンジス川一帯を支配するパーラ朝が成立しました。995年にマヒ―パーラ1世が即位してベナレスまで勢力を拡大しますが、1025年にチョーラ朝がパーラ朝を破りました。1193年にゴール朝ムハンマドはパーラ朝を滅ぼしてインド仏教は完全に衰退しました。

ナーランダ僧院跡(瞑想室)
ナーランダ仏教大学の建物は破壊され経典類は全て焼失し、インド仏教の衰退は決定的となりました。イスラムの突然の侵攻で、瞑想室からは修行僧の遺骨が発見されました。