ブッダガヤ

ブッダガヤは、インド北東部ビハール州ガヤー県にある仏教の聖地です。釈迦が悟りを開いた仏教の四大聖地のひとつで、今も世界各地から仏教徒が集まります。紀元前3世紀頃にアショーカ王が建立したとされる寺院を起源としてマハーボディ寺院が建立されています。
概要
- 面積
- 249km2
- 標高
- 124m
- 人口
- 4.818万 (2018年)
- 地図
歴史
紀元前5世紀頃にガンジス川流域で16大国が覇権を争う時代に、釈尊が厳しい修行の末に悟りを開いて仏教が開かれました。マウリヤ朝アショカ王が釈尊が悟りを開いた地に建造したマハーボディ寺院は、今もなお仏教の聖地としてスリランカの僧侶などが参拝に訪れています。
アーリア人とカースト制
紀元前1500年頃にインドにアーリア人が侵入して、紀元前1000年頃にはガンジス川流域に住むようになりました。アーリア人はバラモン教を基盤とし、バラモンを頂点とする身分制度ヴァルナを生み出し、現在も根強いカースト制度に基づいた統治を行いました。
マガダ国の繁栄
紀元前600年頃にガンジス川流域の16大国が覇権を争うようになると、バラモンを頂点とするバラモン教に不満を持つようになりました。マガダ国シャイシュナーガ王朝5代ビンビサーラは、王舎城と呼ばれる首都を中心に仏教やジャイナ教を保護してガンジス川流域の平原を支配しました。ビンビサーラを幽閉して即位したアジャータシャトルは、コーサラ国を制圧してベナレスなどを併合しました。紀元前4世紀中頃のマガダ国ナンダ朝は強大な軍隊を持ち、貨幣経済が浸透してビルマやセイロンと交易を行いました。
釈尊の苦行
釈迦族の王子ゴータマ・シッダルタは、出家してアーラーダ・カーラーマとウドラカ・ラーマプトラの2人の仙人のもとに訪れますが、これら仙人の悟りが本当の救いではないことを悟り、仙人から後継者を求められるも辞退して5人の仲間とともに苦行へと向かいました。釈尊は前正覚山で苦行に打ち込みましたが、6年かけても悟りを得ることはできませんでした。
スジャータの供養
山を降りた釈尊は、ナイランジャナー川(尼連禅河)で沐浴してガジュマルの樹下で瞑想に入りました。セーナ村の長者の娘スジャータは、ガジュマルの聖霊に男児の誕生を祈ることを日課にしていたため、この日もガジュマルに供養を捧げに行きました。スジャータはガジュマルの下で瞑想する釈尊を見て、聖霊の加護として釈尊に乳粥の供養を申し出ました。釈尊は苦行中の身としてこれを断りましたが、琴の弦は締めすぎると切れてしまうが緩く締めると音が悪い。琴の弦は適度に締めるのが望ましいと諭し、釈尊は乳粥の供養を受けて体力を回復しました。釈尊は菩提樹に赴いて強い決意で瞑想に入りましたが、苦行を共にしていた5人の仲間は釈尊が苦行を捨てたと失望してサールナートへ去りました。

前正覚山
前正覚山で6年の苦行を重ねた釈尊は、苦行で悟りは得られないことを悟りました。釈尊は長い距離を歩いて尼連禅河へと向かいました。

ナイランジャナー川(尼連禅河)
釈尊は尼連禅河で沐浴したときに、村娘スジャータから乳粥の供養を受けました。これを見ていた釈尊の警護役5名は釈尊が苦行を投げだしたとして離れました。

スジャータ村(セーナ村)
釈尊に乳粥を供養したスジャータはナイランジャナー川のほとりにあるセーナ村の出身でした。セーナ村では今も農耕や牛飼いの生活が続いています。

スジャータ寺院
牛飼い長者の娘スジャータは大変裕福な家柄でした。召使のプンナとともにガジュマルの樹に赴き、その下で瞑想する釈尊に高価な乳粥を供養しました。
仏教の誕生(釈尊の成道)
スジャータから乳粥の供養を受けた釈尊は、菩提樹の元で深い瞑想に入り、紀元前528年に魔を退けて悟りを開いたとされます。釈尊は悟りを開いた喜びをかみしめ、1週間ごとに場所をかえながら7週間(49日)にわたりブッダガヤで過ごしました。釈尊は悟りの内容を人に伝えるか考えましたが、簡単ではないため躊躇しました。釈尊は勧請した梵天から3度乞われて悟りの内容を話すことを決意しますが、過去に師事を受けた2人の仙人はすでに死去していることを感じて、苦行を共にした5人の仲間に説法するためにサールナートへ向かいました。

大菩提寺の菩提樹
釈尊が悟りを開いたときの菩提樹は自然に枯れ、2代目は王妃に切られ、3代目は発掘時に間違えて切られたため、現在はスリランカに枝分けされていた4代目です。

金剛宝座
昔は柵はありませんでしたが、オウムの麻原が金剛宝座に座り、我こそ仏陀の生まれ変わりだとか言ったそうで、今後このような事が起こらないよう柵が設けられました。

アニメーシャローチャナ・ストゥーパ
悟りを開いた釈尊は、第2週に金剛宝座から立ち上がり、少し離れた場所から菩提樹を眺め、1週間立ちながら瞑想したとされます。

チャンクラマ・チャイティヤ
第3週は菩提樹の周りを行ったり来たりしました。釈尊が歩くたびに蓮の花が咲いたとされ、紀元前3世紀のアショカ王の時代に18個の石の蓮台が供えられました。

アトラグラハ・チャイティヤ
第4週は釈尊が悟りの真理を四聖諦、八正道、十二因縁として世に現しました。この思索中に体から発した五色の光が仏教旗の起源となりました。

アジャパラ・ニグローダ樹
第5週はアジャパーラというモミの木の下で瞑想に入りました。現在は石柱が置かれている場所で、人は生まれてからの行いが大事であることを悟りました。

ムチャリンダ池
第6週は池の傍らで瞑想を行いました。悪魔マーラが嵐を起こして妨害しますが、池に棲む蛇王ムチャリンダが七重に取り巻いて傘となり釈尊を嵐から守りました。

ラージャヤータナ樹
第7週に釈尊は最後の瞑想を楽しみ、通りすがりの旅商人タプッサとバッリカが釈尊に飲食供養して最初の在家信者となりました。釈尊は仏法を説くことを決意しサールナートへ向かいました。
マウリヤ朝アショカ王
紀元前317年頃にチャンドラグプタがマウリヤ朝を建国し、磨崖碑や仏塔の建立や3度目となる仏典の結集を行うなど仏教を保護したアショカ王の時代に最盛期を迎えました。アショカ王は東インドのカリンガ国との戦いで数十万の犠牲者を出したことに後悔し、仏教に深く帰依して王子をスリランカに派遣するなど仏教の普及に務めました。

マハーボディー寺院(大菩提寺)
スリランカ僧侶が一生に一度参拝したいと願う仏教最大の聖地です。紀元前3世紀にアショカ王が7メートルの塔を建て、4~6世紀にグプタ朝のときに高さ52メートルの大塔に改築されました。

アショカ石柱
紀元前3世紀に釈尊の成道の地を記念してアショカ王が建てました。柱頭部の彫刻は完全に破壊され、現時点では発見されていません。
グプタ朝
紀元前2世紀にマウリヤ朝が滅亡して小国が乱立する時代を経て、320年頃に小国を制圧したチャンドラグプタ1世がグプタ朝を成立させました。グプタ朝ではゼロの概念の誕生など学問が発展し、4世紀頃にバラモン教と民間信仰が融合してヒンドゥー教が生まれました。590年にグプタ朝が滅亡してハルシャ・ヴァルダナ朝が建国しますが、バクティ運動でヒンドゥー教が浸透したこともあり1代で滅び、ヒンドゥー教を基盤とする小国が支配することになります。

スジャータ・ストゥーパ
8~9世紀頃のグプタ朝からパーラ朝にかけて建立されたと言われる仏塔で、釈尊に乳粥を供養したスジャータが住んでいた邸宅跡と言われています。
イスラム勢力の侵攻
750年頃にガンジス川一帯を支配するパーラ朝が成立しました。995年にマヒ―パーラ1世が即位してベナレスまで勢力を拡大しますが、1025年にチョーラ朝がパーラ朝を破りました。パーラ朝は衰退して、1193年にゴール朝ムハンマドの侵略により滅亡しました。イスラム勢力の侵攻でインド仏教は衰退し、マハーボディー寺院は破壊を逃れるため埋められました。1857年にマハーボディー寺院はイギリス考古学者により発掘されたようです。